昨日の続きです‥。
ウクライナについて詠んだ、次のような作品も引用されていました。
「ウクライナ コロナ未来の 教科書の 数行分の 激動の年」(大学院2年)
「青い空 金色(こんじき)の野の ウクライナ 描くためには 赤はいらない」(高校1年)
どちらの作品も、平和を願う気持ちが表れていて、強く印象に残りました。
そして、1月19日(木)は、加賀乙彦さんの逝去を悼む内容で、次のようなことが書かれていました。
『‥‥死とは何か。生きるとはいったい何なのか。そんな根源的な問いを投げ続けた加賀さんが逝った。
若いころ、東京拘置所の医務技官として多くの死刑囚や無期囚と面接した。
気づいたのは、あす死ぬかもしれない死刑囚たちが「時間をギューと凝縮」して興奮状態にあったこと。
対照的に、無期囚は死の問題をわざと遠ざけ「無限に薄められた時間」を静かに生きていた。
私たちの死の意識は死刑囚と無期囚の中間にあるのだろう。
でも、ときには死刑囚のように「真剣に死と対決しておかないと、
いざ、突然死が迫ってきた時に間に合わない」(「生と死と文学」)と加賀さんは記した。
死は誰にも確実な未来である。
筆者を含め多くの人は考えるのを避けがちだが、これに正面から向き合う社会の大切さを説いた。
自伝では「なにも恐れることはない」とも語っていた。93歳。老衰だった。』
このコラムを読んで、ラ・ロシュフコーの
「太陽も死もじっと見つめることはできない。」という箴言を思い出しました。
私は、追悼のコラムにこそ、コラムニスト氏の文才が表れるのではないかと、常日頃感じていますが、
今回のコラムは、心を打つ秀逸な内容ではないかと感じた次第です‥‥。