昨日の続きです‥。
1月28日(土)の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、芥川喜好さんの
「へそまがりとは、世の側から見た「曲がり」であり、へそまがりの側から見れば世の側が曲がっている。」
という「ことば」で、いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。
『へそまがりは「世の曲がりに対して筋を通そうとする」から摩擦を生じ、偏屈者扱いされる。
が、彼らは横一列のものの見方に同ぜずそれを脱臼させる真っ当な「抑止力」であり、
世間を唸(うな)らせる「千両役者」にもなる。
「へそまがり日本美術」展に刺激された文筆家は、畸人伝を繙(ひもと)きつつこう記す。
随筆集「時の余白に続々」から。』
う~む、なるほど‥‥。「へそまがり」は「抑止力」ですか‥。
細君から見れば私は「へそまがり」かもしれないし、
私から見れば細君は、ほぼ間違いなく「へそまがり」のように思うし‥。
‥ということは、お互いがお互いの「抑止力」として働いているのかもしれません。
それはさておき、この「ことば」は、「メタ認知」の重要性についての指摘でもあると、私は理解しました。
追記
「私の折々のことばコンテスト2022」のサイトを閲覧しました。
中学部門の最優秀賞は、「たくさんの消しカスは努力の証しだね」という、国語の先生の「ことば」でした。
受賞した中学2年生は、この「ことば」のエピソードとして、次のようなことを書かれていました。
『‥‥それから私の中での消しカスの見方が変わった。
現代社会はインターネットを多く使うが、
手で書くことで、自分の努力が「努力の結晶」になって見えるのだと。』
心に響く「ことば」というのは、人それぞれの「人生の折々」にあることを、再認識した次第です。