『哲人たちの人生談義~ストア哲学をよむ』(國方 栄二著:岩波新書)を読了しました。
本書の「あとがき」での著者の次の記述を読むと、本書の執筆意図がよく理解できます。
『本書ではストア派の論理学や自然学についてはほとんどと言ってよいほど言及していない。
むしろ、ローマのストア派を中心に、彼らの倫理思考とそれに関連する諸問題を取り扱っている。
「人生談義」の表題をつけたのはそのためである。』
そして、本書の「終章」では、次のように述べられています。
『私たちが哲学書を読んで自慢できることは、その書物について理解できることではない。
それはカント風に言えば、歴史的な知識として学んだだけのことである。
哲学の知が科学的な知識と異なるとすれば、それは情報の伝達だけでは学べないということであろう。
かといって、もちろんむずかしい顔をして、虚空を睨んでいてもなんにも心に浮かんでこない。
古代の哲人たちは哲学を学ぶためにさまざまな道を示してくれている。
かつて哲人たちが歩んだ道を歩んでいくのは、
それに関する情報をあたえてくれる大学の哲学教師たちではない。
むしろ、これを学ぼうという意志のある人自身なのである。』
ローマのストア派の哲人と言えば、セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウス‥。
その中でも、「運命をそのまま受容しつつ、その中で人はどのように生きるべきか」に関心があった
マルクス・アウレリウスの生き方(それはつまり「ストア哲学」)に、私は惹かれるものがあります。
ただ、しかし、「ストア派が理想とする賢者は、アパテイア(無情念)の域に達しているから、
たとえだれかにからかわれたり、侮辱されたりしても、それに対して怒りは感じないのであるが、
賢者に至る道程においては、怒りを含めたさまざまな情念を抑制しなければならない。」とも、
本書には書かれていました。
私はとうていこのような賢者の域に達することはできませんが、
これからも「生きることとしての哲学」を学ぼうとする意志は、持ち続けていたいと思っています‥‥。