しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

怖れと帰依、そして信仰

今月9日の愛媛新聞「現論」に、佐伯啓思・京大名誉教授が、

「日本人の信仰の原点~安らかな死への心情」というタイトルの論評を寄稿されていました。

全文は長くなるので、論評後半の「怖れと畏怖」という箇所を、次のとおり引用させていただきます。


『人の宗教心の起点には、「死への恐怖」や「死後の世界」への関心がある。

 「死」という、いかなる科学的思考も高度な医療も及ばない絶対的に不可知なものが

 万人の上に等しく降りかかってくる。

 人間のいかなる意思も知恵もまったく受け付けないこの絶対的な「何ものか」の力を感じ、

 それに従うほかないと知る時、われわれは宗教に触れている。

 未知の深い闇へ向かうという恐怖を多少なりとも和らげるのは、

 この人智・人力を超えた「何ものか」の働きに自らを委ねる、ということであろう。

 それが宗教心だ、と岡部医師(現在の宮城県立がんセンターで呼吸器科の医長を務めた岡部健医師)はいう。

 かつては、多くの日本人は自宅で家族に看取られ、無理な延命もなく死んだ。

 死はわれわれの近くにあり、無念で悲しいものであっても、人間の当然の終末であって自然な現象であった。

 ことさら宗教というまでもなく、死者は生者とつながっていた。

 この世とあの世のつながりを人々は当然だと思っていた。

 そして死者や先祖を介して家族や親族、知人たちのつながりもあった。

 そこからまた、人々の倫理観も生み出されたのであろう。

 このような精神的な習慣を戦後のわれわれは失ってしまった。

 だが、人間の力を超えたものへの怖(おそ)れと帰依にこそ、日本人の信仰の原点があったように

 私には思われる。』


佐伯先生は、昨年の後半は世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の問題が世間をにぎわしたが、

「私が気になるのは、新興の宗教ではなく、そもそも日本人の伝統的な信仰が立ち現れる基盤は

何だったのか、ということである。」と述べられたうえで、上述のようなことを書かれてたのです。


私はたしか小学4年生の時に、曾祖母が自宅で亡くなる瞬間に立ち会ったことがあり、

これ以降は、そのような体験をしたことがありません。

佐伯先生は、このような「自宅死を見届ける」ことが戦後日本から消えてしまい、

「合理主義の信者であり、生の充実の追求者であるわれわれは、「死」を直視することをやめた。」、

と指摘されていました。


「怖れと帰依」、そして、そもそも「信仰とは何か」について、今回、改めて考えさせられました‥‥。