定例の氏神神社清掃活動は、雨天のため中止になりました。
さて、昨日の続きです‥。
5月24日(金)の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、室生犀星の
「人間というものが何時もわすれているものから不意に、無理に叩き起されることがあるものだと感じます」
という「ことば」で、いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。
『私の場合、「妬(や)きもち」にそれが現れ出ていたと、作家は語る。
まだ名前が出る前、ある歌人の才能と地位に嫉妬し、のちに、立派に育たれた娘さんに会えば
さらに嫉妬は膨らみ、すげなく対してしまったと。
人の心は複雑に屈折し、それが元で存在をこじらせる。
人はよくおのれ自身に足を掬(すく)われる。随想集「加賀金沢・故郷を辞す」から。』
『望郷の詩句として名高い室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」である。
これは、遠方にあって故郷を思う歌ではなく、犀星が郷里の金沢に帰郷したおりに作られた詩という。
東京で思うにまかせぬ暮らしを強いられ、懐かしい故郷に帰っても温かく受け入れてもらえない。
その悲哀、郷里への愛憎半ばする思いが「遠きにありて‥」の言葉となったらしい。‥‥』
2020年8月7日付けの毎日新聞一面コラム「余録」に、そのように書いてありました。
この事実を知ると、この「ことば」とその「解説」も、より親近感がわいてきます。
と同時に、高校生の頃、室生犀星や中原中也の作品に惹かれていた自分を思い出します。
あの頃は、故郷を遠く離れて生活することを夢見ていました‥。
「人はよくおのれ自身に足を掬(すく)われる」ということも、今はよく理解できます‥‥。