しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

「隙間みたいな領域」を埋めるもの

今日は二十四節気の「立秋」です。

現実には真夏の真っただ中にいるようで、連日のように容赦ない暑さが続いています。

ただ、夜が更けると、窓の外から涼しげな虫の鳴き声が聞こえるようになりました。

「秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」(藤原敏行古今和歌集収録)

もう一踏ん張りです‥。


さて今日は、町立図書館に行って、7月28日(日)から8月3日(土)までの

朝日新聞一面コラム「折々のことば」を、まとめ読みしてきました。

この一週間で印象に残ったのは、二つの「ことば」でした。


まず、7月28日(日)は、穂村弘さんの

「さみしいものが見たくなるのは何故だろう。」という「ことば」で、

いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。


『朽ちかけた家の褪(あ)せた表札やひしゃげた牛乳箱、

 地方の商店街の店先に佇(たたず)む昭和っぽい寝間着を着たマネキン。

 見向きもされずに放置されたモノたちに出くわすと思わず見入り、立ち去れなくなると歌人は言う。

 人には明るさや楽しさ、豊かさや温かさだけでは埋められない「隙間みたいな領域」があって、

 そこを埋められるのはさみしさだけだと。随想集「迷子手帳」から。』


なるほど、「隙間みたいな領域」ですか‥。その気持ち、分かるような気がします。

「見向きもされずに放置されたモノたち」に限らず、

「祭りのあと」や「夏の終わり」にも、その「さみしさ」を感じるのは、私だけでしょうか‥‥?