現実には真夏の真っただ中にいるようで、連日のように容赦ない暑さが続いています。
ただ、夜が更けると、窓の外から涼しげな虫の鳴き声が聞こえるようになりました。
「秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」(藤原敏行:古今和歌集収録)
もう一踏ん張りです‥。
さて今日は、町立図書館に行って、7月28日(日)から8月3日(土)までの
朝日新聞一面コラム「折々のことば」を、まとめ読みしてきました。
この一週間で印象に残ったのは、二つの「ことば」でした。
まず、7月28日(日)は、穂村弘さんの
「さみしいものが見たくなるのは何故だろう。」という「ことば」で、
いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。
『朽ちかけた家の褪(あ)せた表札やひしゃげた牛乳箱、
地方の商店街の店先に佇(たたず)む昭和っぽい寝間着を着たマネキン。
見向きもされずに放置されたモノたちに出くわすと思わず見入り、立ち去れなくなると歌人は言う。
人には明るさや楽しさ、豊かさや温かさだけでは埋められない「隙間みたいな領域」があって、
そこを埋められるのはさみしさだけだと。随想集「迷子手帳」から。』
なるほど、「隙間みたいな領域」ですか‥。その気持ち、分かるような気がします。
「見向きもされずに放置されたモノたち」に限らず、
「祭りのあと」や「夏の終わり」にも、その「さみしさ」を感じるのは、私だけでしょうか‥‥?