「派閥裏金問題を受け衆議院選挙で非公認とした候補者が代表を務める政党支部に対して、
自民党が活動費2千万円を支給していた」という記事が新聞に掲載されていました。
「選挙に使うことは全くない」と反論しても、投票日を間近に控えてのこの報道は、
自民党にとって「致命傷」になったように思います。
そして、海の向こう側のアメリカ大統領選挙では、ここにきて
トランプ前大統領の激戦州での優勢が、報道で伝えられるようになりました。
国内の政治経済情勢、それに加えて国際情勢が、一気に流動化しそうな、そんな嫌な予感がします‥。
さて、昨日の続きです‥。
10月19日(土)の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、鶴見和子さんの
「客観性という言葉が誤って使われていると私は思います。
魂を通り抜けなければ、ほんとのものは出てこない。」という「ことば」で、
いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。
『見るだけ、調べるだけならコンピューターでもできる。
だが学問は「『私』の魂を通さなきゃだめ」と比較社会学者は言う。
歌うこと、踊ることは「生命そのものの表れ」であって、
それが学問の根底になければならないのは人類共通のことなのに、今の学問はそれを失っていると。
石牟礼道子との共著「言葉果つるところ」(新版)から。』
う~む‥‥。「学問」における「私の魂を通す」って、どういうことなんだろう?
「星の王子さま」の名言「ものごとは心でしか見ることができない。大切なことは目には見えない」、
これと同じような感じかしら? では、今の「政治」が失っているものは、何なんだろう‥‥?