しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

「器」と「人間」についての哲学的な考察

昨日は、午前8時前から午後6時過ぎまで、公民館で字費(自治会の会費)の集金作業に従事しました。

字費の納付にやって来た63名の組長さんからは、組長のなり手の不在や遠方集積所へのゴミ出しなど、

日頃の切実なお話しをお伺いました。高齢化等に伴う自治会運営の課題を改めて認識した次第です‥。


さて、明日は運転免許証の更新に行こうと思っているので、

今日は前倒しで町立図書館に行って、12月1日(日)から7日(土)までの

朝日新聞一面コラム「折々のことば」を、まとめ読みしてきました。

この一週間で印象に残ったのは、二つの「ことば」でした。


まず、12月1日(日)は、石垣りん

「器はまだからっぽなのに、期待というものがすでに盛られているのを感じます。」という「ことば」で、

いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。


『瀬戸物売り場をのぞいていると、何かを誰かと食べる情景を想像し、心が浮き立つと詩人は言う。

 土が焼かれて品になるところが、焼かれて土になる人間と逆コースながら似ていて、

 肌身に近いところがあるし、人の徳分やみめかたちを表す語が「器量」であることも面白いと。

 人の器量はその用量に表れ出るらしく、「懐が深い」ともいう。

 随想集「焔(ほのお)に手をかざして」から。』


なるほど、「土が焼かれて品になるところが、焼かれて土になる人間と逆コースながら似ていて‥」ですか‥。

そんなこと考えたこともなかったです。

「器」と「人間」についての哲学的な考察だと思いました‥‥。