一昨日の続きです‥。
12月2日(月)の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、小林一茶の
「小便の 身ぶるひ笑へ きりぎりす」という「ことば」(俳句)で、
いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。
『いかに屈強な男子といえども生理には勝てず、始末もつけられない。
放尿とてそのなごりにも出そびれにもきっぱり切りをつけえぬ人の中途半端。
それを詠む俳人・一茶の中に「自嘲」とそこに漂う「一抹の哀しみ」をみた現代の俳人・長谷川櫂は、
そういう自己への揶揄がさらに昂(こう)じたものとして次の句も引く。
「木つゝきの 死ねとて敲(たた)く 柱哉(かな)」。長谷川の「小林一茶」から。』
俳句といえば、郷土の偉人・正岡子規は、新聞「日本」の文芸欄で、
与謝野蕪村の「五月雨や 大河を前に 家二軒」の句を比べて、
蕪村の句の方が写実的で優れていると評したそうです。NHKテレビ「歴史探偵」を視聴して知りました。
はて、それでは子規は、小林一茶のこのような風刺的な句を、どのように評価していたのかしら‥?
余談ですが、「一抹の哀しみ」や「一抹の淋しさ」を含んでいることは、
安岡正篤先生曰く、「人物」としての一要素でもあります‥‥。