しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

やぶ蚊の攻撃を受ける

先月末が雨天中止だったので、今日は一か月ぶりに氏神神社の清掃活動に従事しました。

さすがにこの時期になると、やぶ蚊の攻撃を受けるようになりました。

次回参加する時は、その防御対策を考えたいと思います‥。


さて、昨日の続きです‥。

6月5日(水)の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、片山杜秀さんの

「女性の声や力や思想や発想‥‥が国や社会を動かすようにならないと‥‥

 原発事故以降の日本の社会はうまくいかない」という「ことば」で、

いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。


『公害をめぐる物語、『沈黙の春』『複合汚染』『苦海浄土』が、

 R・カーソン、有吉佐和子石牟礼道子ら女性の手で紡がれたのは偶然でないと、

 思想史家・音楽評論家は言う。

 人を産み、育むことを本気で考えるなら、長期にわたる環境汚染に無関心でいられるはずがない。

 原発事故だって紛れもしない公害だと。「線量計と機関銃」から。』


鷲田さんの解説を読んで自覚したのですが、私は有吉佐和子さんの著作を読んだことがありません。

「複合汚染」と「恍惚の人」と「非色」は、ぜひ読んでみたいと思います‥‥。

棚からぼた餅

昨日の続きです‥。

6月4日(火)の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、ハン・ガンさんの

「ぎりぎりの、か細い希望の方が本物だと感じます」という「ことば」で、

いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。


『人が人を虐殺するという、残忍な事実の累積。

 その背後にはしかし、「粘り強く哀悼」し、「別れを拒否する」人々がいると、韓国の作家は語る。

 人間は誰もが尊い存在だからこそ、それが砕けたのを見るのは苦しい。

 暗黒の状況下で一抹の光と出会うには、どう考えても不可能な想像力が要ると。

 本紙(5月28日朝刊)のインタビュー「暴力に満ちた世界 光は」から。』


う~む‥‥。

「どう考えても不可能な想像力」って、どんな想像力なんだろう? 

私にもあるのかな? ほぼ間違いなく「無い」と思います‥‥。


ところで、今日の愛媛新聞に、明徳義塾高校野球部監督の馬淵史郎さんが、

母校の宇和高校三瓶分校で講演されたという記事が掲載されていました。

24年度末の宇和高校三瓶分校の閉校を前に、同校や三瓶高OBが企画されたそうです。

記事には次のようなことが書かれていました。


『‥‥2002年夏に甲子園優勝を果たし「あれほどうれしかったことはない」と振り返り、

 夢をかなえるには「棚ぼた精神」が大事と強調。「棚からぼた餅」の餅は棚の一番近くにいる人が拾える。

 落ちるのを諦めずに準備して待ち続けるといいことがあると力説した。‥‥』


なるほど、「棚ぼた精神」ですか‥。それは「諦めない心」と同義語なのですね‥。

甲子園常連校・明徳義塾高校野球部の強さが、少し分かったような気がしました‥‥。

人の中に自由をそだてる

今日は町立図書館に行って、6月2日(日)から8日(土)までの

朝日新聞一面コラム「折々のことば」を、まとめ読みしてきました。

この一週間で印象に残ったのは、三つの「ことば」でした。


まず、6月2日(日)は、鶴見俊輔さんの

「小事はこれを他にはかり、大事はこれをみずから決すというのが、先生の信条だった。」

という「ことば」で、いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。


『文字が書けなくなって辞職を願い出た時、上司だった仏文学者の桑原武夫が、

 きみは病気だ、病気中に辞めればゆきづまる、

 今は給料をとって、その後改めて考えればいいと言ってくれたと、哲学者はふり返る。

 明晰にできるのは手段まで、決断の当否を引き受けるのは本人。

 「人の中に自由をそだてる稀有の人だった」と。「追詞」から。』


「小事はこれを他にはかり、大事はこれをみずから決す」が、桑原武夫さんの信条だったとのことですが、

普通の人はこの逆で、「大事はこれを他にはかり、小事はこれをみずから決す」ですよね。

「人の中に自由をそだてる稀有の人」‥。

そのような上司に巡り合えたのは、人生最大の幸福なのだと思います‥‥。


そして、翌6月3日(月)の同紙一面コラム「天声人語」は、没後100年のカフカに関する内容で、

次のようなことが書かれていました。

『‥‥「生きることは、たえずわき道にそれていくことだ。

 本当はどこに向かうはずだったか、振り返ってみることさえ許されない」。

 そんな言葉を残し、カフカは40歳で亡くなった。きょうでそれから、ちょうど100年になる。』


頭木弘樹さん編訳の『絶望名人カフカの人生論』(新潮文庫)には、

「けっきょく、わき道こそが、本当の道とも言えるのかもしれません。」と書かれてありました。

「絶望の中に希望を見いだす」ということでしょうか‥‥。

ものすごくゆっくりとしたペース

ふとしたきっかけで、『フェルマーの最終定理』(サイモン・シン著、青木薫訳:新潮文庫)を

ものすごくゆっくりとしたペースで読了しました。

フェルマーの最終定理とは、3 以上の自然数 n について、

「x^n + y^n = z^n となる自然数の組 (x, y, z) は存在しない」、という定理のことです。


「ものすごくゆっくりとしたペース」になったのは、数学が苦手だからです。

ただこの小説は、数学が不得意とか得意とかは、ほとんど関係ありませんでした。

本書でもっとも印象に残ったのは、この定理を証明したアンドリュー・ワイルズの次の言葉でした。


『大人になってからも子どものときからの夢を追い続けることができたのは、

 非常に恵まれていたと思います。これがめったにない幸運だということはわかっています。

 しかし人は誰しも、自分にとって大きな何かに本気で取り組むことができれば、

 想像を絶する収穫を手にすることができるのではないでしょうか。‥‥』


歴史上の天才数学者たちの執念を感じさせる物語でした。

谷山豊と志村五郎の日本の数学者が、「谷山=志村予想」として、この証明に寄与していたことも、

同じ日本人として、とても誇らしく思った次第です‥。

普段は手にすることのなかった本に出合えてうれしかったです‥‥。

人生も歴史もぐるぐる回る

今日の日経新聞に、ライターでコラムニストのブレイディみかこさんが、

「ぐるりの人生」というタイトルの随想を寄稿されていました。

そこには次のようなことが書かれていました。


『‥‥「前向きに生きろ」とか「後ろを振り向くな」とかよく言われるが、

 人間というのはそんな直線的な動きで生きているわけではないのではなかろうか。

 人の視界は狭いものなので、自分が見ている範囲では直線的に前へ前へと移動しているように見えるのだが、

 実際には大きな弧を描きながら進んでいて、長期的にはぐるりと一周して出発地に戻る。

 歴史は繰り返す、などと言われるのもそのせいかもしれない。そりゃあそうだろう。

 歴史を構成しているのは人間だから、一人一人がぐるぐる回りながら生きているのに、

 歴史だけがひたすら一方向に進むわけがない。‥‥』


この随想を読んで、NHKの番組で歴史学者磯田道史さんが、

「歴史はらせん状に近づくようなイメージで、戻りながら転換していく。

一直線に行ってるわけじゃない。」とおっしゃっていたことを思い出しました。


なぜ「歴史は、繰り返さないが韻を踏む。」なのか‥? 

「歴史を構成しているのは人間だから、一人一人がぐるぐる回りながら生きているのに、

 歴史だけがひたすら一方向に進むわけがない。」というブレイディさんのご指摘で、

その意味するところが少し分かったような気がしました‥‥。