しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

一年の折り返しの日

ほぼ毎日閲覧している「こよみのページ」のHPによると、今日は「一年の折り返しの日」だそうで、

さらに、「日刊☆こよみのページ」には、次のような詳しい解説記事が掲載されていました。


『今日 7/2の記念日データを見ると、一年の折り返しの日

 今日がちょうど年初からの日数と年末までの日数が等しくなる日です。

 日刊☆こよみのページの暦のデータを見れば「年の184日目 残り183日」となっています。

 あれ、日数が違ってるじゃないか。と、どうせ気づかれることですから先に書いてしまいますが、

 これは今年が閏年だからです(平年なら「年の183日目 残り183日」となっていたはず)。

 一年は平年が365日、閏年なら366日。半分にしたら182.5日と183日となります。』
 

はぃ‥、そうですか‥‥。いつの間にか一年の半分が過ぎていたのですね‥‥。

しかし、考えてみると、この半年間は、

後世の歴史教科書にも載りそうな、激動と波乱の半年だったように思います。

だって、今年のお正月時点で、誰が今の「コロナ禍」を想像することができたでしょう‥‥?


2020年という年の残り半分は、中島みゆきさんの名曲「時代」の歌詞のように、

「♬あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ」‥、そんな日がいつか必ず来ることを信じて、

希望を失わずに生きていきたいと思います。

利益と利益の対立

日経新聞電子版「Nextストーリー」で連載が続いている「哲学者が考えていること」、

第三回目は、政治哲学者の萱野稔人(かやのとしひと)・津田塾大学教授でした。

記事には勉強になる記述がたくさんありました。例えば次のような‥‥。


・論理の学問である哲学は問題点を整理するのに役立つ。そう萱野は考えている。

 「物事を抽象化、概念化して理解しようとする試みは、すべて哲学といっていい。

 直感的な思いつきではなく、状況を見定めるのがその基本で、今の時代ますます大切になっている」


・国家や社会など現実的なテーマを設定し、それを哲学のアプローチで考えるというスタイルを貫いてきた。

 例えば「国家は戦争や暴力を引き起こすので必要ない」という主張があるとする。

 萱野はこう考える。国家がなければどうなるか。私刑などがはびこる社会になるだろう。

 私たちがちまたの暴力におびえずに生きられるのは、国家が暴力を独占するためである‥‥。

 そうした考察をまとめたのが初の著書「国家とはなにか」(2005年)だ。


新型コロナウイルス流行による外出や営業の自粛、私権制限も政治哲学の対象になる。

 「大きく捉えれば政治哲学の原理は、個人の自由を重んじるリベラリズムと、

 集団の利益を大切にする功利主義の2つしかない。これが衝突したり、折り合ったりする」

 リベラリズムは「誰でも他人に迷惑をかけない限り自由にふるまえる」という思想だ。

 だが他人に危害を及ぼすならば、自由の制限もやむを得ない。

 感染症の広がりを防ぐ私権制限は、リベラリズムで正当化できる。

 一方の功利主義は英哲学者ベンサムが説いた「最大多数の最大幸福」という概念に象徴されるように、

 公共の利益の最大化をめざす。

 感染防止は社会全体の利益にかなうので、やはり私権制限を正当化しうるのだ。


・「今回は功利主義功利主義がぶつかった」と萱野。

 感染抑止の利益と、経済活動の利益が対立する構図だった。

 だが究極的には「何を重視するか」という価値観に行き着くので、この問題は解決が難しい。

 現実は常に多面的で、世界はますます捉えがたくなっている。

 根源に立ち返り、原理的に考えるための言葉をどう人々に伝えるか、萱野は考え続けている。


う~む、なるほど‥‥。

新型コロナウイルス流行による外出や営業の自粛、私権制限も政治哲学の対象になるのですね‥‥。

勉強になりました。

そして、この問題は、究極的には「何を重視するか」という価値観に行き着くというのもよく分かりました。


そういえば、萱野さんはかつて、NHKEテレ「100分de名著」に出演されて、

カントの名著「永遠平和のために」を解説されていたことを思い出します。

先日の國分さんといい、今日の萱野さんといい、

NHKEテレ「100分de名著」という番組は、新進気鋭の講師を招聘されていたのですね。

番組の「最も相応しい人材を選ぶセンス」に、改めて感服した次第です‥‥。

失敗からいかに学ぶか

日経新聞電子版のニューズレター「NIKKEI Briefing」の

「マネーのまなび~人生100年時代のお金のはなし」、

今日の配信記事で、佐藤珠希・日経マネー編集長が、

「失敗を糧に投資力を磨く」という小見出しの中で、次のようなことを書かれていました。


『‥‥投資で損をしたくないのは誰でも同じですが、失敗を恐れてばかりいては何も始まりません。

 事実、どんな著名投資家であっても、失敗を重ねる中で腕を磨き、資産を増やしているのです。

 人気投信「ひふみ」シリーズを運用するレオス・キャピタルワークス社長の藤野英人さんは、

 レジェンド投資家のトレードの失敗をまとめた書籍「ビッグミステイク」(マイケル・バトニック著)の解説に

 こうつづります。

 「投資をする以上は必ず失敗する。失敗はリターンを得るために避けられないコストであり、

 失敗の向き合い方に失敗すれば、コストがリターンを大きく上回ることも起きる」‥‥。

 どんな偉大な投資家でも必ず失敗はする。

 その経験から何を学び、次のピンチにどう向き合うかが成果を左右すると指摘します。

 今回の調査で、リーマン・ショックを経験した個人投資家に、

 リーマンの経験をコロナショックに生かせたかを尋ねたところ、「生かせた」と答えた人は全体の46%。

 ところが、3年連続プラスの運用成績をあげている人に限ってみると、

 6割近くが経験を生かせたと回答しました。

 連勝投資家の多くは、過去の手痛い経験を生かし、コロナショックをチャンスに変えていたのです。

 「私は失望などしない。どんな失敗も新たな一歩となるからだ」とは発明家のトーマス・エジソンの言葉。

 失敗からいかに学ぶかが、投資においても仕事においても、成功の鍵を握っているのです。』


う~む、なるほど‥‥。

「失敗はリターンを得るために避けられないコスト」ですか‥‥。

私の場合はそもそも、失敗をするだけの投資ができなくて、コメントする立場にありませんが、

「失敗からいかに学ぶか」については、レポートにも書かれているように、

投資においても仕事においても、そして人生においても、共通する「定理」のようなものだと感じています。

本当に大切なのは、「失敗の向き合い方」なのですね‥‥。

哲学が必要とされる時代

日経新聞電子版「Nextストーリー」では、

今日から「哲学者が考えていること」というタイトルの連載記事が始まりました。

第一回目は、哲学者で東大准教授の國分功一郎さんで、記事には次のようなことが書かれていました。


『「‥‥劇作家ブレヒトは“英雄がいない時代は不幸だが、

 英雄を必要とする時代はもっと不幸だ”と言いましたが、

 僕は“哲学がない時代は不幸だが、哲学を必要とする時代はもっと不幸だ”と思う」

 古代ギリシャではポリス(都市国家)が腐敗した時代にプラトンらが現れ、新しい知を人々に説いた。

 「哲学は社会が危機に直面したときに現れるもの」。まさに現代は哲学の時代といえる。

 思索を同時代の問題に向けてきた。國分の名が広く知られるきっかけとなったのが、

 消費社会や人間疎外の問題を考察した「暇と退屈の倫理学」(2011年)だ。

 國分が喝破したのは、私たちは「無為に時間を過ごすべきではない」との強迫観念にとらわれており、

 余暇すらも有意義な時間として「消費」することを求められているという現代の病理だった。』


『哲学という学問は先行する思想の研究を通じ自分の考えを築いていく。

 國分が研究対象としたのは17世紀オランダで汎神論を説いたスピノザと、

 人間の無意識と欲望を考察した現代フランスの思想家ドゥルーズだった。

 特にスピノザは「生き方を教えてくれる人」だという。

 國分はその哲学のエッセンスを「“君はこういう人間だからこうしなければならない”という捉え方ではなく、

 人間の本質とはその人の(潜在的な)力であり、どうしたらそれを発揮できるかを考える思想」と説明する。

 そんな「自由の哲学」に魅了された。』


う~む、なるほど‥‥。

國分さんといえば、かつてNHKEテレ「100分de名著」に出演されて、

スピノザの著書「エチカ」を解説されていたことを思い出します。

そして、哲学といえば、私は、哲学者、故・池田晶子さんの「悩むな、考えよ」を心の拠り所としています。


なお、この記事の冒頭には、

『私たちが複雑な世界を生きるためには、「ノウハウ」や「スキル」ではない、本当の「知」が必要だ。』

と書かれていました。

「哲学が必要とされる時代」をどう生きるべきなのか‥? 明日からの連載記事も楽しみにしています‥‥。

奮闘の人生

今日の愛媛新聞に掲載された『鎌田慧の「忘れ得ぬ言葉」』は、ジャーナリスト・むのたけじさんの

「死ぬ時、そこが人生のてっぺんだ」という言葉で、記事には次のようなことが書かれていました。


『‥‥真珠湾奇襲攻撃の前、日本軍はベトナムに侵攻、そこから東南アジア諸国へ戦線を広げていった。

 20代のむのさんは朝日新聞の従軍記者として、侵略戦争のまっただ中にいた。

 天皇の敗戦放送の3日前、ポツダム宣言受諾の情報は入っていた。

 社会部の部会でこれからどうするか議論になった。

 しかし、戦争協力への反省もあらたな出発の気概もなかった。

 おなじ建物で、おなじ輪転機で、そのままあたらしい時代の新聞をつくれるのか。

 30歳。家庭があった。それでもひとり退社した。

 故郷に帰って、戦後日本を照らし出す「たいまつ」を30年発刊しつづけた。

 決断と持続。やり抜いた果ての100歳になって、「辞めたのは、短慮でもあった」との反省がある。

 辞めて闘う、残って闘う。その双方を認める老成だった。

 「死ぬ時、そこが人生のてっぺんだ」。85歳、色紙に書いた。

 それから死ぬまで、まだ奮闘の人生だった。』


はぃ‥、「奮闘の人生」に程遠い私には、ただただ頭が下がる生き方です。

なお、さきほどの「詞集たいまつ」のなかには、次のような言葉もあります。

『失敗は、なるたけしない方がよいに決まっている。

 けれども、真にこわいのは失敗することではなく、いい加減にやって成功することだ。』

『人間関係を耕作するのに、謙虚にまさるこやしはない。』


この二つの言葉をずっと胸に刻んで、これまで生きてきたつもりですが、

「奮闘」という名の姿勢・態度が、私の人生には欠けていたのではないかと深く反省しています。