哲学者の鷲田清一さんが、
『「残念だが、パーティーは次回にお預けだ」~パンデミック下の時間感覚』というタイトルの随筆を、
岩波書店の雑誌「図書」11月号に寄稿されていました。
そのなかで、次のようなことを書かれていたので、この日記に書き残しておこうと思います。
『‥‥現実というのはほんらい、いろんなリズムを刻む時間が錯綜しているものだ。
内臓の時間、自然の時間、時計の時間、歴史の時間などなど。
そのなかでいろんな出来事が「あれもこれも」、「次から次へと」、
「ここにもそこにも」と犇(ひし)めく。
通勤の時間、会議の時間、作業の時間、くつろぎの時間。
あるいは、矢のように去る時間、泥のように滞留する時間、予測のつかない時間、
いつまでも過去になってくれない時間、緊迫した瞬間の連続‥‥。オン/オフがひっきりなしに交替する。
さまざまな出来事が複数の次元で同時に、あるいは少しずつずれて、始まり、終わる。そう、雑然、雑多。
複数の時間が絡まり、積層しているのが、わたしたち一人ひとりの現実だ。
そしてそれらの一つひとつに、さまざまの「折り目」や「節目」といった仕切りが差し込まれている。
恒例の季節行事や記念日、始業の日、締め切りの日、
それらがしかし、コロナ禍のもとでことごとく延期ないしは中止になった。
そしてそもそもそういう仕切りのあったことも思い出しにくくなった。
このように「きょうは~をした」と数えられるような行為もわずかになると、時間は表情も律動も失い、
のつぺらぼうになる。
だからきょうが何曜日かも、あれをしたのは何月だったかも、にわかに言えなくなったりする。
のうぺらぼうというこの当惑は、表情や律動の消失とともに、
いま一つ、時間が宙づりの状態にあることからくる。それは始まりと終わりがないということであり、
だから時が滞留し、向かう方向もまた定かではないということだ。‥‥』
う~む、なるほど‥‥。
朝日新聞一面コラム「折々のことば」での短い解説と違って、今回の随筆は長文でしたが、
「考えさせられる文章」という点では、いつもと同じでした。
いろんなリズムを刻む時間が錯綜しているという、わたしたち一人ひとりの「現実」には、
「折り目」や「節目」という「仕切り」が大切であることが、随筆を読んでよく分かりました。
「仕事」という日々の「仕切り」がなくなった今の私は、
ある意味、「のっぺらぼう」な時間を過ごしています‥‥。