昨日の日経新聞「春秋」を読んで、少し考えることがありました。
前半の5年が過ぎようとしている2010年代について、
中間総括するならどんな時代なのか?
コラムでは、「残念」という言葉が紹介されていました。
「ダメ」な時代という救いのない意味ではなく、
そこはかとなく「共感」や「同情」を感じさせる意味での「残念」だそうです。
考え込んだのは、
こうした「残念」という説明を受けての、次の文章を読んでのことでした。
『いつの時代も、若者が作る文化には2つの共通点がある。
大人社会に欠けたもの、失われたものを補おうとすること。
それゆえ年長者には理解されないまま支持を広げることだ。
今の若者文化が少数派や「欠点」の持ち主を好んで描き、
自由や寛容の価値を訴えているとしたら、それは何に対する異議申し立てなのだろう。』
はて、私が若かった頃に、
大人社会に欠けていたもの、失われたものとは一体なんだったのか?
大人に理解されないまま支持を広げようとしたものはなんだったのか?
何に対して異議申し立てをしようとしていたのか?
いろいろと当時のことを思い起こしても、記憶が甦りません。
いや…、一つ今でも覚えているのは、
高校生の時、全校集会で校長先生が壇上で挨拶しているのを遮って、
見知らぬ先輩が、どこからともなく「ナンセンス」と叫び、
それを受けて教頭先生が、
「今、ナンセンスと叫んだ者は、あとで職員室に来なさい。」と言ったことです。
あの時の一瞬の緊張感と緊迫感……。
先輩は、あの時、何を訴えようとしていたのか?
私は、その当時、「何か」に対する批判精神は持ち合わせていたのか?
う〜ん、やっぱり思い出せない…。
どうやら私も、いつのまにか、
物分かりのいい「大人」の仲間入りをしてしまったようです。
果たしてそれはいつからなのでしょう…?