しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

今どきの弔いを考える

日経新聞に掲載された

『130万人のピリオド 今どきの弔い㊤㊦』という記事を読んで、

先日、お彼岸に実家の墓参りをした私は、

我が身のこととして、深く考えるところがありました。

㊤㊦の記事の冒頭には、それぞれ次のようなことが書かれていました。

 

『年間130万人もの人が亡くなる多死社会。

 少子高齢化で、去りゆく人が増える一方、見送る人は減っている。

 人口構成の変化で「弔いのカタチ」も変わりつつあり、

 郷里にある先祖代々の墓を自身の生活圏などに移す「改葬」が

 じわじわと広がっている。』

『弔いがない「無葬」の時代が近づいている。

 葬式をして家の墓に入る普通の葬送が都会だけでなく地方でも減りつつある。

 貧困や孤立だけでなく家族関係の希薄化が影を落としている。

 葬儀をせずに火葬する「直葬」や一人で逝く「無縁死」が増え、

 遺骨がさまようことも。そうなる前に、生と死をつなぎ安心して死ねるよう

 永代供養に縁を求める動きも広がってきた。』

 

私の実家のお墓は、県立伊予高校の隣の墓地にあり、

自宅からは自転車で10分以内、買い物帰りにお墓参りすることができて、

立地としてはとても便利なところにあります。

 

ところが、父と私が亡くなった後、

実家のお墓の管理をどうするかという問題が横たわっています。

あまり妻に負担をかけるわけにもいかないし、

娘と孫娘は、それぞれ一人っ子で、

2人がいなくなれば完全に無縁墓となってしまいます。

 

そして、もう一つが葬儀の問題です。

父については、その葬儀の「カタチ」はともかくとして、

長男である私が責任をもって弔う意思と覚悟がありますが、

私自身については、妻や孫娘に迷惑がかかるくらいなら、

直葬」でも別に構わないと、最近、思うようになりました。

 

なお、先ほどの記事には、

京都市内にある実家の寺の副住職で

「無葬社会」の著書もある編集者の鵜飼秀徳さんの、

『地縁・血縁が希薄になり寺の檀家制度が田舎でも崩壊しつつある。

 死を丁寧にみとる時代は過去のものになるかもしれない』

という警鐘の言葉と、解剖学者の養老孟司さんの、

『人間一人ひとりに対する思いが軽くなったのだと思う。

 自分の代わりがいくらでもいる。

 人の価値が減り、死が重くない社会になった』という、

葬送が簡素化している根本的な背景についての解説がありました。

 

う~む、まいったな……。

自分が亡くなった後の世界を考えるのは、とても辛いものがあります……。