昨日4日から日経新聞「経済教室」では、
「時代の節目に考える」という論考の連載が始まりましたが、
『日本資本主義 再興の時~米国型に代わる「普遍」作れ』と題する論考を寄稿されていました。
「自由放任主義」を中軸とし、「株主主権論」を絶対視する米国型資本主義が、
「グローバル標準」ではなくなったとするこの論考の結論は、次のような記述でした。
『自由放任でも株主主権でもない資本主義の「形」。
もちろんそれは日本そして欧州大陸諸国の資本主義の特質であり、その意味では新しさはない。
だがいま、それを唯一の普遍からの逸脱としてではなく、
資本主義がとりうる様々な「形」の一つ、
いや多様な普遍の中の「一つの普遍」としてとらえ直す機会が来た。
それは「日本資本主義」を、日本に固有の「構造」を持つ資本主義としてでも、
発展が「遅れた」資本主義としてでもなく、
日本社会が自主的に選びとる「一つの普遍」としての資本主義とすることである。
その「普遍」の中身をどう作り上げるかは、私たちの意思と決定にかかっている。
それが、日本の西欧化元年の明治維新から150年にあたる今年の課題である。』
私がとても勉強になったのは、この記述のなかにでてくる「構造」と「遅れ」についての
「日本資本主義論争」に係る、岩井教授の次のような解説でした。
『昔「日本資本主義論争」と呼ばれた論争があった。
1930年代から第2次世界大戦を挟んで60年代まで、
マルクス主義者の間で繰り広げられた血みどろの政治闘争である。
それは戦前日本が抱えていた貧困や不平等などの原因を巡る論争から出発している。
一方の陣営は講座派と呼ばれ、日本の社会を、西欧資本主義がたどった発展経路から外れ、
天皇制という独自の封建制の下で固有の「構造」を持ってしまった社会と規定した。
他方の陣営は労農派と呼ばれ、日本社会を、資本主義の通常の発展経路をたどってはいるが、
その発展が西欧に比べて大きく「遅れ」ている社会であると主張した。
学問上の対立にしかみえないこの論争が血みどろの政治闘争になったのは、
それが社会主義に向けた革命戦略の対立を導いたからだ。
日本社会が封建的ならば、社会主義革命の前に市民革命を行う必要がある。
既に資本主義的であれば、次の革命は社会主義革命だけでよいことになる。
いまでは喜劇にしかみえないだろう。だが私は喜劇として笑い飛ばせない。
日本社会の特質をその固有の「構造」に見いだすべきか、発展の「遅れ」に見いだすべきか、
という論争はマルクス主義を超え、その後も様々な形で繰り返されてきたからだ。』
う~む、なるほど‥‥。そういうことですか‥‥。
だから、岩井教授が指摘されているように、バブル崩壊後の日本経済の長期停滞の理由についても、
独自の文化により固定されたその「構造」に見いだす議論と、
米国的な市場自由化の「遅れ」に見いだす議論が対立したのですね‥‥。
さらに岩井教授は、講座派と労農派の対立と同様の対立が何度も繰り返されてきたのは、
その対立の背後に共通の思考が存在しているからで、
その共通の思考とは、かつてであれば西欧社会、
近年ならば米国社会を唯一の「普遍」とみなす思考であり、
それは、日本を含めた非西欧社会、近年ならば欧州大陸諸国すら含めた米国以外の社会のあり方を、
この唯一の普遍からの「逸脱」とみなす思考だと述べられていました。
新年早々、格調の高い論考を読むことができました。
でも、「日本資本主義」を、「一つの普遍」としての資本主義とすることとして、
その「普遍」の中身を作り上げるこというのは、
国家としての「座標軸」、あるいは「ものさし」のようなものを
作ることだと理解してよいのでしょうか‥? だとしたら、とっても重たい課題だと思います。