一昨日8日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、マタイによる福音書(新約聖書)の
『思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。』という言葉で、
いつものように、鷲田清一さんの次のような解説がありました。
『先の見えない、塞いだ時代だと人は言う。
けれども視界が遮られているのは、未来が不確定だからではなく、
目を凝らせばある未来が確実に来ることがわかるのに、すべて先送りにし、
その対策に本気で着手できないでいるからではないのか。
例えば人口減少、国家財政の破綻(はたん)、経済成長の限界、放射性廃棄物処理の膠着(こうちゃく)。
聖書のこの一節は私たちのそんな無様も思い起こさせる。』
う~む、無様(ぶざま)ですか‥‥。ちょっときつい表現だけど本質を突いている言葉だと思います。
でも、未来に確実に起きることを先送りするという人間の無様さが、
何千年経っても変わっていないことには、ちょっと悲しくなりますよね‥‥。
さて、立冬も過ぎ、季節の上では冬となりましたが、今日は小春日和の一日となりました。
空き家になっているお隣の柿の木も、ご覧のとおり、趣のある紅葉になっています。
それに比べて、我が家の庭のヤマモミジは、紅葉もイマイチといったところでしょうか‥‥。
それでも、自然界の造形物は、無様(ぶざま)という態様とは、ほとんど無縁であり続けるのだと思います。