昨日の続きです‥。
9月19日(金)の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、浜田律子さんの
「その瞬間、わたしの中で粉々の骨片が“人”になった。」という「ことば」で、
いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。
『報道カメラマンの夫と沖縄で遺骨収集にあたる人たちを取材した元記者。
戦争の記念日にしか来ずとも、
せめて足元からお骨を一つでも掘り出してあげたらと言われ、返す言葉がなかった。
以後長く遺骨の収集と返還に努める。
現場で、襲撃により散った骨の傍らにお守りらしい小さな招き猫を見つけた時、不意に大粒の涙が零れた。
浜田哲二との共著「80年越しの帰還兵」から。』
NHKラジオ「朗読の世界」で、宮地喜久子さんの「ひめゆりの少女~十六歳の戦場」を聴き終えたのは、
つい先日のことでした。今は遅ればせながら、「沖縄ノート」(大江健三郎著:岩波新書)を読み進めています。
今振り返って思うのは、高校・大学の頃に「沖縄」についてほとんど関心を持たなかったのは、
どうしてだろう?という疑問です。
そして、その疑問に対する自分なりの答えとは、どういうものなのだろう‥‥?