月日の経つのは早いもので、今日から3月です。
七十二候では、今日から「草木萌動(そうもくめばえいずる)」で、草木が芽吹き始める頃‥‥。
草の芽が萌え出すことを「草萌え」(くさもえ)というそうですが、春を感じさせる言葉ですね。
さて、日経新聞文化欄では今日から、
宗教学者・山折哲雄さんの「私の履歴書」の連載が始まりました。
これからの1か月、楽しみにして読みたいと思っています。
初回の今日は、次のようなことが書かれていました。
『ふり返ればこの歳までいろんな病気をしてきたが、その多くは消化器系のものだった。
十二指腸潰瘍、肝炎、それも急性、慢性を含めてC型というのまで、
それに急性の膵臓(すいぞう)炎などである。
そのため十二指腸と胃の三分の一の切除、後年になって胆のうの全摘手術をうけ、
腹のまんなかに二本のメスの跡が入っている。
この消化器系の病ではいつも、鈍痛や疼痛(とうつう)、
それに激痛などさまざまな痛みとのたたかいだった。
それに耐えてもだえているときは、肩の上であろうと背中であろうと
重い荷物がずしりと沈んでくるような気分になった。
生きて呼吸をしていること自体が何とも息苦しい。
それが病気というものの本質みたいなもので、当たり前のことなのだろうとも思っていた。
いってみればそれは、私にとって存在の重さ、といったものだった。』
この記述を読んで、私の病歴が山折さんとよく似ているのにびっくりしました。
子どもの頃は膀胱炎、29歳で十二指腸潰瘍、
胆のうには「無言の石」を20年間抱え、そして今回の急性前立腺炎‥‥。
腹のまんなかには、十二指腸と胃の三分の一を切除した際の、一本のメスの跡が入っていて、
もしも胆石が暴れだすと、再び私の腹にはメスが入ることになります。
山折さんはこの後に続く文章で、「はじめて心臓の不整脈という循環器系の疾患で倒れた際には、
消化器系の場合の痛みからほとんど解放された」、
「なるほど、もしも死に至る病というものがあるとしたら、
この循環器の病こそそれを理想的なかたちであらわしているのではないかと想像した」、
「消化器系の場合の存在の重さとはまったく対極にある、
存在の軽さといった領域にいつのまにか入っていく」と述べられていました。
病気というものを、「存在の重さ」と「存在の軽さ」という表現で客観的に見つめ、
そして、生死を哲学する‥‥。
病気への耐性がない私のような凡人には、「異次元」の思想・哲学だと思いました。
冒頭にも書きましたが、これからの連載がとても楽しみです。