昨日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、生物学者・池田清彦さんの
『おじいちゃん、おばあちゃんの最後のつとめは、
孫や家族に自分が死ぬところを見せることではないか。』という言葉で、
いつものように、鷲田清一さんの次のような解説がありました。
『死がベールの向こうに置かれる。街には犬の死骸すらない。
延命措置で、「いまわの際」をしかと看取(みと)るのも難しくなった。
生と死は一続きなのに、死は見えなくされる。
死を特別扱いせずに、死骸が鳥たちに啄(ついば)まれ、
きれいな白骨となって「土に還(かえ)る」という自然のサイクルに心を留めるべしと、生物学者は言う。
「ほどほどのすすめ」から。』
還暦を迎える頃から、親族の葬儀に参列することが多くなりました。
ここ5年の間に、父方の叔父が二人、母方の叔父が二人亡くなり、そのうち三人は県外に在住でした。
ですから、四人の叔父に、最後に会ったのはかれこれ昔のことで、
まさかその時が今生の別れになるとは、当時の自分にはとても想像できませんでした。
また、四人の叔父には子どもの頃に、それぞれから大変かわいがってもらったけれど、
結局、その恩に報いることができなかった、という自責の念があります。
ところで、今日の「折々のことば」に関してですが、
私が「いまわの際」に立ち会ったのは、小学生の時の曾祖母の死、ただ一度だけです。
曾祖母の危篤の方に接して、愛媛の実家に急ぎ帰郷したのですが、
実家にたどり着いて数十分後に、曾祖母は静かに息を引き取りました。
母が、「ひいばあちゃんは、私たちが帰るまで待っていてくれたのよ」と言ったことを、今でも覚えています。
そのような「最後のつとめ」を、私も妻や娘、そして孫娘の前で果たすことができたら、
これ以上の幸せはないのではないか‥‥、コラムを読んでそう思った次第です。