ずっと曇りか雨かのぐずついたお天気が続いています。そろそろ陽光が恋しくなってきました。
立て看板がキャンパス内に乱立し、学園紛争の余韻が色濃く残っていた大学生の頃、
社会人になってからは縁遠くなったけれど、6年前にはそれまで未読だった『邪宗門』を、
そして今回、未読だった本書を手に取りました。
購読のきっかけは先日、NHK映像の世紀バタフライエフェクト
「安保闘争 燃え盛った政治の季節」を視聴して、
全共闘世代に熱く支持された著者の本を、ふと読みたくなったからです。
読み終えた本書は付箋だらけになりましたが、最も印象に残ったのは、次の記述でした。
『‥‥いま、裁判官も検事も、そして政府も、ある一つのことには触れようとしない。
それがそもそもけしからんのだとは、今のところ誰も言わない。
しかし、思想の自由も、表現の自由も、なにも暗い頭蓋の中出だけるのではなく、
ひそかに日記や原稿紙にしるされる表現だけを意味するものではない。
思想は内部思考とともに行為や外化される過程を当然に含み、表現は個人的な言語の表現のみならず、
身体的表現や集団的表現をふくむ。しかも思想の試行錯誤的行為化過程や表現の集団性は、
しばしば眼高手低、一見矮小な、つまらないとみえる形態をとらざるをえない。
しかし、個別的な場面でのそのつまらなさと、内部で統合されている際の理想性の中間、
あるいはその振幅のなかにしか、思想や表現の進展はありえない。
一人の人間が不退去罪、威力業務妨害罪でさばかれる。
だが、それは他の局面、つまりは思想的営為において目をつけられていた人間の、いわば別件逮捕であり、
法の名目はその別件に限りつつ、その人間の存在と不可分な思想を裁こうとしている。‥‥
‥‥一つの学内で、何度か交渉を重ねながら、ついに機動隊出動にまで至った過程の中で、
学生側にも全く落度はなかったとはいえない。しかし、権力の論理のほかに、まだ今のところは、
別の論理に従う営為もありうるのであり、じっと目を注ぎ、すべてを公開すれば、
力で勝った方が道徳的には敗れているということを、証明しうる余地はまだなくはない。
そして恐らくその全過程を完全に、書ききったとき、まぎれもなく、私自身は解体する。』
また、本書に同時に収録された「死について」という随筆は、
「三島由紀夫の自害」を全共闘運動全体に対する強烈なアンチテーゼだと分析していて、
とても読み応えがありました。
なお、巻末の「高橋和巳の公共性~来るべき読者のために」という解説で、
批評家の杉田俊介さんが、次のようなことを最後に書かれていました。
『きっと、若い読者、新しい読者が本書を手に取れば、時代状況の中から放たれた高橋の言葉の生々しさ、
新しさに、意外なほどに新鮮な驚きを感ずることだろう。
そして自らの活動の場に向き直すささやかな勇気を与えられることだろう。』
「新鮮な驚き」‥。久しぶりに著者の本を手に取った、私の感想でもあります‥‥。