今日10日が「時の記念日」であることを、
その由来について、「こよみのページ」には次のように書かれていました。
『日本書記に671年の4月25日(グレゴリウス暦の置閏法を敷衍して適用すると
671年6月10日にあたる)に漏刻と呼ばれる水時計を新しい台に置き、
鐘や鼓で人々に時刻を知らせたと記述されていることを記念して制定。』
う~む、「日本書紀」ですか……。
時計の歴史って、かれこれ古かったのですねぇ…。(感嘆)
先ほどの「天声人語」にも、『流れ出た水の量で時間を計る牧歌的な時代から、
ずいぶん遠いところまで来た。』と書かれていました。
そして、「時」といえば、いつも一冊の本のなかの、ある一節を思い起こします。
その本とは、曽野綾子さんとアルフォンス・デーケンさんの
『旅立ちの朝に~愛と死を語る対話』(青萠堂)で、
ある一節とは、「あとがき」でデーケンさんが書かれていた次のような内容です。
『ギリシャ語には「時」を意味する二つの言葉ークロノスとカイロスーがあります。
クロノスは客観的・物理的な時間、時計によって測られ、
時・分・秒といった単位で表現される量的な時間です。
しかし時間にはもうひとつの側面ーー質的な時間であるカイロスも存在します。
カイロスとは生涯に一度訪れて二度とはめぐってこない唯一無二の時のことです。
前頭部には長い髪がありますが、後頭部は禿(はげ)という姿で描かれています。
カイロスが前からやって来る時はその前髪をつかんで捕えることができますが、
いったんカイロスが通り過ぎてしまったら、
後ろからつかまえることはもうできないというわけです。
そのような一度限りの決定的瞬間の体験は、
私達人間の一生を大きく左右するものです。
ただ、カイロスそれ自体は外から与えられるものですが、
カイロスの意味を見逃すことなく、それに伴う挑戦に応えるかどうかは、
個人の主体性にかかっています。』
ふぅ~…。ちょっと紹介が長くなりました。
ひょっとしたら、この一節は、以前にもこの日記に書いたかもしれません。
それにしても、還暦も過ぎると、このカイロスの意味がよく理解できます。
たぶん、この私にも、これまでの人生で幾度かカイロスが訪れたと思うのですが、
残念ながらその時には、自分の未熟さから、
その意味の重要性に気づかなかったか、
あるいは、気づいていても挑戦する勇気に欠けていたのかもしれません。
後悔のない人生を歩むのは容易なことではありません……。