しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

銭湯の思い出

今日は銭湯の思い出を書きます‥‥。

今日の朝日新聞デジタル版に、「銭湯」に関する記事が掲載されていました。

その記事には、銭湯という「キーワード」について、次のような解説がありました。


『公衆浴場法に規定された施設。地域住民の保健衛生を確保する役割を担い、

 物価統制令に基づき都道府県で入浴料金が定められているものが「銭湯」と呼ばれる。

 都内は460円、大阪府は440円(いずれも大人料金)。

 厚労省によると、1980年時点で全国に1万5696軒あった。

 15年後の95年には1万軒を割り、今や3729軒(2017年度)にまで減少した。』


私は子どもの頃から、銭湯には大変お世話になりました。

小・中学校時代を過ごした滋賀県大津市唐川の東レの社宅には、お風呂がありませんでした。

そのため、私たち家族は、ほぼ毎日のように銭湯に通っていました。

夏には、大きな「たらい」に沸騰したお湯をためて、行水をすることもありました。


大学受験の浪人時代を過ごした京都の予備校の寮や、大学時代の東京の下宿先でもお風呂がなく、

近くの銭湯に通いました。

大学時代のうち2年間は、埼玉県所沢市にある東レの社員寮にお世話になりました。

その寮には広々とした銭湯のようなお風呂があって、

学生の私は、社員の方には申し訳なかったけれど、いつも一番風呂に入っていました。


‥‥ということで、銭湯は私にとって、なくてはならない貴重な存在でした。

肉体的に疲れた時や、精神的に落ち込んだ時などに、広々とした湯船に浸かると、

それだけで身体や心が解放されるのが実感できました。

今でも、気持ちをリフレッシュしたいときには、

自宅のお風呂では物足りず、無性にスーパー銭湯に行きたくなります。


昔ながらの銭湯は、こちらでもほとんど無くなってしまったけれど、

銭湯の思い出は、私の記憶から消え去ることはありません‥‥。

思い出はゆりかご

日経新聞では今月から、プロゴルファー、中嶋常幸さんの「私の履歴書」の連載が始まりました。

群馬県桐生市が故郷の中島さんは、昭和29年生まれで、私より一つ年上になります。

年が近いせいか、今日の次のような記述には、私も似たような体験があり、

親近感と懐かしさを覚えました。


『清水町の自宅から10分も歩けば桐生川や浅間山(せんげんやま)にぶつかる。

 暖かい時期は川に潜って魚をとったり、

 浅瀬で大きな石をぶつけて魚を気絶させつかまえる「ぼっかん釣り」。

 ヤスでうなぎを突いたこともある。

 浅間山は200メートル足らずで、子どもの脚でも30分ほどで頂上に着く。

 山では木登りや、秘密基地をつくって遊んでいた。秋は山へキノコ狩りに連れて行ってもらい、

 マイタケや一本シメジなどを入れた自家製麺のキノコうどんは懐かしいおふくろの味だ。

 加山雄三さんの「若大将」シリーズや、私と同じ54年に誕生した「ゴジラ」を、

 街の映画館で友達と一緒に見るのが楽しみで、駄菓子屋にもよく行った。

 小4の夏の「前橋遠征」は鮮明な記憶が残っている。

 常実くんと、たぶん1年生だった近所の小池くんを連れ、

 20キロ以上も離れた前橋市内のプールへ、自転車で出かけたのである。

 桐生の街を出る前に、小池くんは「もう帰ろうよ」と泣きだした。

 なだめすかして何とか到着し、泳いだのは2時間ほど。

 トラックやバスが走る車道を走り、往復8時間はかかっただろう。

 桐生に戻ったときは真っ暗で夜8時頃(ごろ)。家族は大騒ぎになっていた。』


小学校の頃、私は滋賀県大津市唐川に住んでいました。

加山雄三さんの「若大将」シリーズや、ゴジラモスラの怪獣映画を、友達と一緒に観に行ったこと。

・近所の駄菓子屋さんで、3個で10円の「たこ焼き」を買って食べたこと。

・自宅から歩いて数十分の瀬田川に、小鮒釣りに行ったこと。

・夏休みには、父の勤務先の東レ石山工場の社員プールに、毎日のように泳ぎに行ったこと。

・弟と二人で近くの山に登って迷子になり、ようやくたどり着いたのが、 石山寺の裏山だったこと。


‥‥などなど、こうした子供の頃の、純粋に楽しかった思い出は、決して忘れることがありません。

それはまるで、さだまさしさんの名曲、「思い出はゆりかご」の世界です。

「コトバ」は難しい‥

梅雨らしい天気が続いています。今、こうして日記を書いている時間も、雨が降り続いています。


さて、今日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、哲学者・評論家、福田定良さんの

『自分のコトバさがしをするということは、

 自分の生活体験から離れずに考えられるようなコトバを見つけるということです。』という言葉で、

いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。


『家族のこと、職場や地域のこと。

 人には専門家の言論に委(まか)せておけない「ここだけの問題」というのがある。

 しかもそれは「おいそれとは解決できない問題」を孕(はら)む。

 だから専門家の示す一般的な原則以上に、住民それぞれの「ここ」を交える、

 地に足ついた「話し合い」が大事なのだと、哲学者・評論家は言う。遺稿集「堅気の哲学」から。』


う~む‥‥。今回も奥深い言葉と難解な解説です‥‥。

「自分の生活体験から離れずに考えられるようなコトバ」って、具体的にはどんな「コトバ」なのかな‥?

鷲田さんの解説をよんでも、なんとなく雰囲気として分かったような、分からないような‥‥。


まぁ、こうして著名な人の文章を読んで、自分なりに考える時間を、一日のほんの数分間でも持つこと、

そのこと自体が大切なのかもしれないと、自分自身を慰めています。

令和の時代の国造り

日経新聞では、石原信雄・元内閣官房副長官の「私の履歴書」の連載が続いていましたが、

月末の今日がその最終回でした。最終回の今日も、次のような印象に残る記述がありました。


『14年から官邸が各省幹部の人事権を握り、官邸一極集中の政治主導が強まっている。

 政治主導は政策の重点を政治が決めることで、それと行政の公平性・中立性は別の話である。

 法治国家法の下の平等が原則だ。

 支持政党や思想にかかわらず、同じ要件の人が行政から受ける恩恵に差があってはならない。

 有力政治家に忖度(そんたく)して行政の公平性・中立性が冒されるのは民主主義の後退で、

 危険なことだ。官邸が人事権を握る今、勇気のいることだが、役人はこのけじめを守ってほしい。

 政治の側には行政の公平性・中立性を堅持するため、

 人事の運用で各省の意見を尊重するよう望みたい。』


そして、連載の全編を通じて印象に残っているのは、石原さんが尊敬できる政治家として、

竹下登元総理と村山富市元総理の、お二人の名前を挙げられていたことでした。

竹下元総理には「満身創痍でもあきらめない決意を感じた」、

村山富市元総理は「公平無私で責任感の強い方である」と、当時を述懐されていました。

たぶん、お二人とも石原さんの目から見て、リーダーとしての「人間性」に優れていたのだと思います。


そういえば、連載を読んで、現役職員の頃に、石原さんの御講演を拝聴したことを思い出しました。

その時、どんなことをお話しされたのか、もうすっかり忘れてしまいましたが、

誠実そうなお人柄と丁寧で分かりやすいお話しぶりは、しっかりと覚えています。


なお、石原さんは連載の最後に、

『官僚諸君が大きな制度設計に関わる機会はすぐそこにある。

 政と官がよい緊張感を持った令和の時代の国造りに期待したい。』と述べられていました。

「令和の時代の国造り」がどのようなものになるのか、

現役地方公務員を退いた私も、興味と関心を持ち続けていたいと思います。

お金のこと、金融・経済のこと

雨雲が低く垂れこめ、雨も降ったり止んだりで、梅雨らしいお天気となりました。

適度な雨が水源を潤す恵みの雨となって、

けっして昨年のような豪雨災害とならないように、空を仰ぎながら祈るばかりです。


さて、今日の日経新聞「Pickデータ」は、

『今年還暦 「貯蓄100万円未満」4分の1』というタイトルの記事で、

次のようなことが書かれていました。


『還暦を迎える人のうちほぼ4人に1人は貯蓄額が100万円未満‥‥。

 プルデンシャルジブラルタファイナンシャル生命保険(PGF生命))が

 2019年に60歳を迎える男女2000人を対象に4月時点の貯蓄額を調べた。

 100万円未満と回答したのは全体の24.7%で、前年の20.6%から上昇した。

 金融庁の報告書が老後資産に必要とした「2000万円」に満たなかった人は7割いた。』


う~む‥‥。このデータから拝察すると、私を含めて、

多くの人が老後の生活に不安を持たれているのではないでしょうか‥‥?

ただ、お金をいくら持っていても、この不安は解消されないのかもしれません。


ところで私は、学校でお金のこと、金融や経済のことを学んだことがありません。

今日のような報道を見聞きするにつけ、

資本主義・市場経済の世界では、学校現場において、できるだけ早い時期に、

お金の役割や、金融・経済に関する知識を児童・生徒に伝授することが、

個人の資産形成にとっても、国家の健全な発展にとっても、不可欠のような気がしてきました。