今日30日の産経新聞「正論」は、
雪斎先生こと櫻田淳・東洋学園大学教授の、『安保法制論議に揺らぎ見せるな』でした。
この論評で雪斎先生は、ズバリ、次のように述べられています。
『外交・安全保障を含む広い意味での政治を語る際に避けなければならないのは、
「牧師(宗教家)」や「法律家」の発想を持ち込むことである。』
「牧師(宗教家)」や「法律家」の発想とは、具体的には、
・牧師、即ち宗教家にとって物事の価値判断の基準は、
「道徳上、それが正しいか正しくないか」
・法律家にとっての価値判断の基準は、
「法律上、それが正しいか正しくないか」
一方、政治家にとっての価値判断の基準は「それが必要か必要でないか」であり、
政治家の採るべき態度は、「道徳上、不実であろうと、あるいは法律上、怪しかろうと、
それが国家、国民の利益のために必要であるかどうか」である。
そのうえで、政治学者には、
そうしたニコロ・マキアヴェッリの言葉にある「必要性」の評価の他に、
「それが賢明であるか愚劣であるか」という価値判断の基準が加わる。
雪斎先生は、このように述べられていました。
さらに、次のような内容は、雪斎先生の面目躍如ともいうべきものでした。
『安保法制の「必要性」の検証には、
中国や北朝鮮の動向を含む安全保障上のリスクの評価から、
米国を含む友好国の動向への評価、
さらには日本の国力や採り得る政策選択肢の評価に至るまで、
多面的な議論が要請されるべきところ、
その「必要性」を多面的に検証するのではなく、「合憲か違憲か」という
半ば定型的な「憲法解釈」論議に走って何かを語ったように錯覚する風潮は、
いかにも安直なものである。
そうした安直な風潮こそが、
従来、日本の安全保障論議の「堕落」と「窒息」を招いてきた要因なのである。』
あぁ〜、スッキリしました。
モヤモヤしていた心の霧が晴れたような気分です。
雪斎先生の論評を読んで、今国会における安保法制の審議において、
与党と野党の議論が、どうしても噛み合わない理由が、
ようやく分かったような気がします。