相変わらず、睡眠不足の日が続いています。
夜の9時過ぎから布団に横になって本を読んでいると、
自然と睡魔に襲われ、すぐに眠りにつくことができるのですが、
おおむね夜中の12時から1時の間に目が覚めます。
トイレに行って、再び寝床に入りますが、今度は午前3時頃に目が覚めます。
その間、夢を見ているのか、それとも起きているのか、
どちらか分からないような状態です。
そして、これ以降は午前5時過ぎに起床するまで、
ウトウトしているだけで再び眠れることがありません。
このような熟睡できない状況がほぼ毎日のように続いていて、
自分でも身体が保てているのが不思議なくらいです。
さて、話は変わりますが、日経新聞電子版「経営者ブログ」で、
鈴木幸一・IIJ会長が、「日本と米国のネット創世記のカルチャーの違いを
ボブ・ディランと吉田拓郎に例えては、なんだかわからないと言われたことがある」
として、次のように述べられていました。
『ボブ・ディランがデビューした頃は、
第2次大戦後、欧州や日本の経済復興を援助し、世界を動かしていた米国が、
ベトナム戦争の泥沼化で、その陰りを意識し始めた時代だった。
豊かさを謳歌していた親の世代を否定し、反抗する若者たちによって、
カウンター・カルチャーといった言葉も生まれた記憶がある。
インターネットの歴史もその時代に始まっている。
ボブ・ディランの歌詞や詩は、奇妙な省略があり、
言葉の断片によって、不意にイメージが暴発するような
シュールリアリズム的な難しさがある一方で、どこかに強いメッセージがあって、
理解しがたい言葉を超えて、世界中の若者に訴えていた。
一方、当時の日本のフォークソングには、強いメッセージ性はなくて、
日々の暮らしの哀楽を素朴にすくい上げ、
感傷的な慰めとして、私的な優しさに訴えることで、
若者の共感に支えられたものだった気がする。
メッセージがなく、私的な慰めにとどまる日本のフォークソングは、
当然のことながら、グローバルな共感とはならなかった。』
う~む……、なるほど。相変わらず鋭いご指摘に感心してしまいます。
「日本のフォークソングには、強いメッセージ性はない」
というご指摘には、具体的な例を挙げて反論したい気持ちがありますが、
「グローバルな共感とはならなかった」は、おっしゃるとおりだと思います。
ただ、たとえメッセージがなく、私的な慰めにとどまっていても、
日本のフォークソングには素晴らしい名曲が多かったと私は思っています。
だって、40年以上経っても聴きたくなる曲というのは、
ほとんど文科省唱歌の領域に達しているのではないでしょうか……。
ところで、今日は珍しく残業をして帰宅が遅くなり、
日記を書くのがこんな時間になってしまいました。
案外、今日は眠れるかもしれません。
明日は明日で仕事の飲み会があり、この日記はお休みすることにします。