しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

価値観の相違

今日2日の朝日新聞デジタル版「異論のススメ」に、

佐伯啓思京都大学名誉教授が、

『「人生フルーツ」と経済成長 脱成長主義を生きるには』

という論評を寄稿されていました。

 

日本住宅公団で戦後日本の団地開発を手掛けた建築家、津端修一さんと

その妻英子さんの日常生活の記録である

「人生フルーツ」というドキュメンタリー映画に関連して、

佐伯先生は次のような考え方を披歴されていました。

佐伯先生の経済成長主義への考え方が示されている個所を、

いささか長くなりますが、この日記で引用させていただきます。

『90年代になって日本はほとんどゼロ成長に近い状態になっている。

 にもかかわらず、われわれは、あいかわらず、より便利な生活を求め、

 より多くの富を求め、休日ともなれば

 より遠くまで遊びに行かなければ満足できない。

 政府も、AIやロボットによって、

 人間の労力をコンピューターや機械に置き換えようとする。

 住宅もITなどと結びつけられて生活環境そのものが自動化されつつある。

 外国からは観光客を呼び込み、国内では消費需要の拡張に腐心している。

 それもこれも、経済成長のためであり、

 それはグローバル競争に勝つためだというのだ。

  日本がグローバルな競争にさらされていることは

 私も理解しているつもりではあるが、そのために自然や四季の移ろいを肌で感じ、

 地域に根を下ろし、便利な機械や便利なシステムに

 できるだけ依存しない自立的生活が困難になってゆくのは、

 われわれの生活や経済のあり方としても本末転倒であろう。

 この5月末に私は「経済成長主義への訣別」という本を出版した。

 私は、必ずしも経済成長を否定する「反成長論者」ではない。

 また、いわゆる環境主義者というわけでもない。

 しかし、これだけモノも資本も有り余っている今日の日本において、

 グローバル競争に勝つためにどうしても経済成長を、

 という「成長第一主義」の価値観には容易にはくみすることはできない。

 現実に経済成長が可能かどうかというより、問題は価値観なのである。

 経済成長によって、「より便利に、より豊かに」の追求を第一義にしてきた

 戦後日本の価値観を疑いたいのである。

 それよりもまず、われわれはどういう生を送り死を迎えるか、

 それを少し自問してみたいのである。

      ~(略)~

 確かに、より多くの快楽を得たい、より便利に生活したいというのは、

 現代人の本性のようになっている。経済成長もわれわれの生活に組み込まれている。

 しかし、この映画はまた、その気になれば、このグローバル競争の時代に、

 都市のニュータウンの真ん中で、

 ささやかながらもこのような生が可能なことをも示している。

 経済成長を否定する必要はないが、そのかたわらで、

 脱成長主義の生を部分的であれ、採り入れることはできるはずであろう。』

 

う~む、なるほど……。

佐伯先生がおっしゃりたいことは理解できるし、

また、経済成長を否定する「反成長論者」でないことを知って少しほっとしましたが、

「問題は価値観なのだ」と述べられると、

それ以上はいくら議論をしても平行線のような気がします。

 

ただ、僭越ながら、私がもし企業の採用選考の面接官だったら、

脱成長主義者の就活生を採用することは、おそらくないと思います。

その理由は………(この後は、皆さんの想像にお任せします…。)