『経済学の思考法~稀少性の経済から過剰性の経済へ』(佐伯啓思著:講談社学術文庫)を読了しました。
昭和30年に生まれてから、昭和49年に高校を卒業するまで、
「高度経済成長」という「奇跡の時代」の恩恵を、どっぷりと受けて私は生きてきました。
本書は、「明日は今日よりも必ず良くなる」という、
「成長至上主義」からの「価値観の転換」を、私に迫るものがありました。
佐伯先生は本書のなかで、次のように述べられていました。
『日本の活路を開く細い一本の道とは、「脱成長主義の社会」へ向けた社会像を構築し、
その方向へ向けた「公共計画」を官民協調のもとで実現することだ。
「脱成長主義の社会」といま述べた。それは必ずしも「脱成長社会」というわけではない。
「成長主義」という思い込み(プリコンセプション)から解放されるということである。
「成長主義」のオプセッション(強迫観念)から自らを解き放つことである。
それは「成長主義」「効率主義」「能力主義」という
市場主義の価値からの転換をはかることである。
日本の経済状況は現状では決して明るいものではない。
だがしかし、また、先にも述べたように、われわれはきわめて「豊かな社会」に生きている。
しかも、私は「脱成長主義」といったが、
必ずしも「成長なき経済」を望ましいなどと考えているわけでもない。
実際、個別企業は競争し、技術開発をするのだから、それなりの成長は当然ながら可能なのである。
しかも、実は、先に述べた新たな社会に向けた「公共計画」や
防災を含む国土の「強靭化」によって内需は拡大し、経済はむしろ活性化するであろう。
そして確かに、短期的にいえば、内需拡大によるデフレからの脱却は必須の課題なのである。
にもかかわらず、長期的にいえば、
「成長主義」や「効率主義」を無理に政策の軸にすえるべきでない。低成長を前提にすればよい。
現代社会をベルのいうような「ポスト工業社会」への転換、
ギデンズのいうような「ポスト稀少性の経済」への転換と見れば、
事態は決して悲観したものではない。
「失われた20年」といって過度に悲観的になる必要もないし、
過剰に自虐的になる必要もないであろう。
重要なことは、将来の社会像を想像する力にある。
それは、少子高齢化へ向けた社会であり、社会生活の安全性と安定性の確保であり、
文化や教育や地域という「人づくりのインフラストラクチャー」へ配慮した社会であろう。
それらはいずれにせよ、効率性、利潤原理からすれば分の悪いものであって、
だからこそ「価値観の転換」がまずは求められるのだ。』
う~む、なるほど‥‥。
「脱成長社会」ではなく「脱成長主義社会」ですか‥‥。
いずれにしても、「将来の社会像を想像する力」が必要なのですね。
なお、佐伯先生は、「学術文庫版あとがき」で次のようにも述べられていました。
『今後の世界や日本がどのように動くかは、きわめて不透明になっている。
「コロナ後」に、かりに一時的に日本も世界も一挙に景気がよくなるとしても、
その本質にある脆弱さや不安定性は変わらない。
表面上の変動ではなく、その「本質」を見続けることこそが
われわれに求められているのだろう。』
価値ある一冊に出合えたことに感謝しています。