熱が下がったと思ったら、今度は咳が止まらなくなり、体調不良が続いています。
でも、何とかこの日記を書くだけの気力と体力は残っています‥。
さて、昨日の続きです‥。
12月21日(土)の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、苅谷剛彦さんの
「自分でつかんだわけではない幸運に、どれだけ責任をもつのか。」という「ことば」で、
いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。
『私たちはどの親の許(もと)に生まれるかを選べない。が、与えられた境遇の差は人生に濃い影を落とす。
恵まれた人はだから「自分で選んだわけではないことで自分が有利になった」ことに自覚的であれと、
教育社会学者は言う。特に恵まれないでも生徒ではいられる子も、世界を見渡せば幸運といえる。
そこに目をとめることで見えてくるものは多いと。「学校って何だろう」から。』
なるほど、「そこに目をとめることで見えてくるものは多い」ですか‥。
ところで、12月15日(日)の同紙連載記事「日曜に想う」には、
「民主主義のもろさを憂う」と題して、次のようなことが書かれていました。
『‥‥1948年から数年間使われた、旧文部省の中学・高校の社会科教科書「民主主義」の記載は、
独裁者との対比もあり、味わい深い。
「民主主義を単なる政治のやり方だと思うのは、まちがいである。
民主主義の根本は、もっと深いところにある。それはみんなの心にある。
すべての人間を、個人として、尊厳な価値を持つものとして、取り扱おうとする心、
それが民主主義の根本精神である。‥‥』
「そこに目をとめる」心を持つことも、この「民主主義の根本精神」のような気がした次第です‥‥。