今月3日の朝日新聞デジタル版「異論のススメ」に、
佐伯啓思・京都大学名誉教授が、『死を考えること 人に優しい社会への第一歩』
というタイトルの論考を寄稿されていました。
この論考のなかで佐伯先生は、次のようなことを述べられていました。
『人々の活動の自由をできる限り拡大し、富を無限に増大させるという、
自由と成長を目指した近代社会は、確かに、死を表立って扱わない。
死を論じるよりも成長戦略を論じる方がはるかに意義深く見える。
しかし、そうだろうか。
かつてないほどの自由が実現され、経済がこれほどまでの物的な富を生み出し、
しかも、誰もが大災害でいきなり死に直面させられる今日の社会では、
成長戦略よりも「死の考察」の方が、実は必要なのではなかろうか。
もっとも、いくら考えたとしても、「死とは何か」など、答えのでるものではない。
だから考えても意味がない、という側にも言い分はありそうにもみえる。
しかし、私はそうは思わない。
われわれが自分たちの生の意義を問おうとし、この現実社会の意味を問おうとすれば、
いったんは、この現実の生から離れ、それから抜け出さねばならず、
死を前提にして生を見直さねばならない。
だから、死を考えることはまた、生を考えることでもあり、
家族や社会のありかたを考えることでもある。
つまり、自分なりの「死生観」を論じることである。
「死生観」は、ひろい意味での宗教意識と深くつながっている。
なぜなら、多くの宗教意識は、この現実を超越した聖なるものを想定し、
その聖なるものによって人々を結びつけ、
また、この聖性によって、人々の現実の生に意味を与えるものだからである。』
う~む‥‥。(沈黙)
「死を考えることはまた、生を考えることでもあり、家族や社会のありかたを考えることでもある。
つまり、自分なりの「死生観」を論じることである。」と書かれた箇所を読んで、
私なりに深く反省するところがありました。
というのも、この歳になっても私は、「自分なりの死生観」というものを語ることができません。
佐伯先生の指摘される「生の意義」というものを、真剣に考えていないのだと思います。
でも、どうすれば身につくものなのかしら‥‥?