しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

自分なりの死生観

今月3日の朝日新聞デジタル版「異論のススメ」に、

佐伯啓思京都大学名誉教授が、『死を考えること 人に優しい社会への第一歩』

というタイトルの論考を寄稿されていました。

この論考のなかで佐伯先生は、次のようなことを述べられていました。


『人々の活動の自由をできる限り拡大し、富を無限に増大させるという、

 自由と成長を目指した近代社会は、確かに、死を表立って扱わない。

 死を論じるよりも成長戦略を論じる方がはるかに意義深く見える。

 しかし、そうだろうか。

 かつてないほどの自由が実現され、経済がこれほどまでの物的な富を生み出し、

 しかも、誰もが大災害でいきなり死に直面させられる今日の社会では、

 成長戦略よりも「死の考察」の方が、実は必要なのではなかろうか。

 もっとも、いくら考えたとしても、「死とは何か」など、答えのでるものではない。

 だから考えても意味がない、という側にも言い分はありそうにもみえる。

 しかし、私はそうは思わない。

 われわれが自分たちの生の意義を問おうとし、この現実社会の意味を問おうとすれば、

 いったんは、この現実の生から離れ、それから抜け出さねばならず、

 死を前提にして生を見直さねばならない。

 だから、死を考えることはまた、生を考えることでもあり、

 家族や社会のありかたを考えることでもある。

 つまり、自分なりの「死生観」を論じることである。

 「死生観」は、ひろい意味での宗教意識と深くつながっている。

 なぜなら、多くの宗教意識は、この現実を超越した聖なるものを想定し、

 その聖なるものによって人々を結びつけ、

 また、この聖性によって、人々の現実の生に意味を与えるものだからである。』


う~む‥‥。(沈黙)

「死を考えることはまた、生を考えることでもあり、家族や社会のありかたを考えることでもある。

つまり、自分なりの「死生観」を論じることである。」と書かれた箇所を読んで、

私なりに深く反省するところがありました。


というのも、この歳になっても私は、「自分なりの死生観」というものを語ることができません。

佐伯先生の指摘される「生の意義」というものを、真剣に考えていないのだと思います。

でも、どうすれば身につくものなのかしら‥‥?