日経新聞紙面とその電子版で、「キセキの高校」という連載が続いています。
これが実に面白いだけでなく、「哲学」が生きていくうえでいかに大切か、
考えさせられる内容となっています。連載第三回目の今日の紙面は、冒頭、次のような文章で始まります。
『「偏差値が低い学校の生徒は伸びる」。東京大教授の梶谷真司(52)は経験から知っている。
受験偏差値では都立高で最低に近い大山高校(板橋区)で「哲学対話」が始まるきっかけをつくった。
1つのテーマを決め、互いに問いと答えを繰り返すことで、生徒は気づいていない本来の力を取り戻す。』
さらに、詳細な記事を電子版で読むと、「哲学」と「哲学対話」について次のようなことが書かれていました。
・問う。考える。語る。それこそが哲学。それこそが、自由なのだ。
・学校で、職場で、何かを「考える」とき、人は難しい顔になる。
オトナの集まりであればあるほど、眉間にしわがより、沈黙は重くなる。なぜだろう。縛られるからだ。
表向き「自由な発言」を許す会議や集まりはもちろんある。
しかしそのような場でも、人は場の空気や互いへの配慮に縛られ、およそ自由に話すことなどない。
・対話では「なぜ?」「どうして?」と問いを向けられる。
すると具体的な経験や、自分の内に秘めていた考えを基に語らなくてはならない。
うなずき合う共感ではなく、語り合うことから生まれる解放感のようなもの。
梶谷はそれを「日常の前提から離れて自由になること」と表現する。
・自由だと感じること、それが体を軽くする。考えることが、人を自由にし、背負った荷を軽くする。
う~む、なるほど‥‥。
「問い、語り合うこと」は、「日常の前提から離れて自由になること」なのですね。
私は、この記事を読んで、哲学者・池田晶子さんが、
常々『悩むな、考えよ。』とおっしゃっていた意味が、少しだけ分かったような気がしました。
「哲学」とは、物事の本質を考える、絶えざる営みなのですね‥‥。
私もあまり悩まずに、まずは考えることを心掛けたいと思います。自由になるために‥‥。