私の愛読書の一つである、池田晶子さんの「暮らしの哲学」(毎日新聞社)には、
次のような「くだり」があります。
『雨の降る日に家の中にいるというのは、なぜか心が落ち着くものです。
とくに朝、雨音の中にうとうとと目覚めてくるあのひとときというのは、至福といってもいいくらいだ。』
ところが今朝は、強風が吹き荒れ、雷も鳴って、大荒れの目覚めの朝となりました。
池田さんは、先ほどの文章に続いて、
『‥‥この種の内的親密さ、心としての世界との本来的親和性を思い出すためには、
独り部屋の中に降り込められる雨の音が、やっぱり向いているんですね。』とおっしゃっていましたが、
どうやら「雨の日」「雨の音」にも、「そうではないものがあること」に、今日は改めて気づかされました。
ところで、話は変わりますが、父が三日ほど前から体調を壊して、寝床に臥せる日が続いています。
91歳になっても、碁を打つことを楽しみに、毎日のように公民館に通っていた父が、
排泄の後始末が必要なほどに衰弱しても、何もできない、何も役に立たない私は、ただ戸惑うばかりです‥。
それに引き換え、自分の両親や兄を看取ってきた妻は、私の父にもここ数日、献身的に尽くしてくれました。
人間というのは、いざという時にその真価が問われるということを、今更ながら自覚した次第です。
所詮、私は、日頃から娘が指摘するように、口では偉そうなことを言っても、
もったいぶった「偽善者」に過ぎないのかもしれません‥‥。
また、今日とは違う、落ち着いた雨の日に、雨音を聴きながら、じっくりと自らを省みたいと思います‥‥。