お盆を控え、お墓にお供えするシキビを買い求めるため、今朝、開店直後の産直市に行きました。
すると、同じようにシキビを買い求めるお客さんの長蛇の列‥‥。皆、考えることは同じなのですね。
買い物を終えた後は、シキビを持ってそのままお墓に直行です。
お墓の舗装されていない狭い共同駐車場の片隅では、
腰が曲がった、92歳の父よりも年配と思われる女性の方が、窮屈そうに黙々と草むしりをされていました。
「おはようございます」の挨拶と同時に、「ありがとうございます」の一言も言えればよかったです。
いや、できれば、ご一緒に草むしりをすればよかったのかもしれませんが、
私には、その勇気と行動力はありませんでした‥‥。
(口先だけで行動が伴わないところを、妻や娘から批判されるのだと思います。)
さて、話は変わりますが、日経新聞「文化欄」で連載が続いている「戦後日本の行方」、
「大衆と教養主義 記憶の継承 人文知が支える」と題して、次のようなことを書かれていました。
『‥‥戦争から時間がたち、対象と距離をおいて考えられるようになってきた。
なんとなく記憶を継承するというだけでは不十分だ。
本質を問う思考を働かせて議論を積み上げるには、教養や人文知が人々に共有されている必要があるだろう。
こうした課題は新型コロナウイルスへの対策や、福島第1原発事故を巡る議論のあり方と根っこで通じる。
戦争の問いと同じく、組織病理をえぐる考察ができているだろうか。
人々はそれぞれの立場で見たいものを見て、聞きたいものを聞くようになっている。
検索して情報にたどり着くというインターネットの特性は、その傾向に拍車をかけている。
閲覧履歴などデータによっておすすめのニュースを提示するというレコメンド機能は便利だが、
視野を狭めてしまい、人々の間で意識や知識のギャップを生み出しやすくなるだろう。
専門研究者と一般の人々が分断されていてはいけない。
包括的に情報を伝えるマスメディアの役割は重いし、
子供たちに知識を伝える学校もメディアとして大きな可能性を持っていると感じる。
メディアが一般教養を含めてさまざまな知を社会に提供することによって初めて、
人々が歴史と今を考えるための基盤を築くことができるだろう。
過去を問うことが未来にもつながるはずだ。』
私がこの論評のなかでも特に印象に残ったのは、
「メディアが一般教養を含めてさまざまな知を社会に提供することによって初めて、
人々が歴史と今を考えるための基盤を築くことができるだろう。」という記述でした。
ところで、私が電子版も含めて日経新聞を長年購読しているのは、
専門の経済記事のほかに、意外にも(?)文化面の記事が充実しているからです。
「一般教養を含めた知の社会への提供」は、メディアの重要な使命だと、私もそう思っています。