今日の日経新聞一面コラム「春秋」と朝日新聞一面コラム「天声人語」は、
3月1日に107歳で逝去された、美術家の篠田桃紅さんを追悼するコラムでした。
それぞれのコラムをこの日記に書き残しておこうと思います。
『「わきまえない」女性であったに違いない。
多様性なる言葉が昨今のようには意識されていなかった、1950年代のことである。
美術家の篠田桃紅さんはひとりで米国に渡り、水墨によるアートをニューヨークの人々に問うた。
日本がようやく復興しつつあるころだ。
滞米2年。やがて「TOKO」の名はかの地で高まり、帰国後も「墨」の可能性を広げる創作にいそしんだ。
書であり、抽象画でもある独特の作品を目にし、水墨の自由さ、不思議さを知ったファンは多いだろう。
晩年にもまた新たな人気を得て、最期まで筆を手にしていたという。
そんな桃紅さんが107歳で他界した。
米寿を迎えたころ、お話をじっくりうかがったことがある。
「強いられて何かをするのはキライ」。
じつに歯切れのよい口跡で語ってくれた半生は波瀾万丈(はらんばんじょう)というほかない。
型にはまった常識を打ち破ってきた人の持つ迫力に、聞き手はたじたじとなった。
古びて見える戦後昭和という時代は、こういう才能を育てもした。
ニューヨークでは、墨はまたたく間に乾いてしまう。粘りや余韻を残せない。
しかし「やりにくいがそのことが、私に水墨の風土ということを悟らせ、表現の多様さを教えた」と
エッセー集「その日の墨」にある。新しい環境を逆手に取り、創造力を鍛えたのである。
多様性というものの価値を体現した生涯であったろう。』
『白状すれば、小学生のころ書道が何より苦手だった。
墨をするのは楽しかったが、トメもハネも決まらない。
先生のお手本をなぞる練習が壁のように思われ、前へ進めなくなった。
そんな壁を壁とも感じず、篠田桃紅(とうこう)さんはひょいと飛び越えたようである。
「川」や「三」を書くとき、棒を5本引いたり、斜線を足したくなったりする性分。
「犬が柱につながれて綱の長さの範囲しか動けない。それが書というもの。
私は横の線をサーッと無数に書きたい。長く永遠に尽きない線を引きたい」と本紙に語っている。
戦前は漢詩や和歌を書きつつ文字のかたちを追究した。
その後は線の強さや美しさを求めて作品がどんどん抽象化していく。
書でもなく水墨画でもない独自の「墨象(ぼくしょう)」世界を切りひらいた。
作品は内外の名だたる美術館に収蔵された。
きのう訃報(ふほう)に接した。107歳。
著作に収められた書を見直せば、ひらがなはどれも野草の茎のよう、漢字は亀甲文字のたたずまい。
絵も絵で、黒と白だけなのにまるで極彩色の迫力を帯びる。
濃い墨、薄い墨、太い線、細い線でここまで表現できるのかと改めて驚く。
エネルギッシュな書画とは対照的に、随筆には独特の丸みがある。
「人生は二河白道(にがびゃくどう)。
氷の河、火の河の間にある白い細い道を探して、よろよろとやっています」
「描いても描いても、まだなんの表現もできていません」と。墨、筆、紙に導かれた人生だった。
壁にひるまず、枠にこだわらない。字も絵もそして生き方も。』
私はつねづね、コラムニストの真価は、追悼のコラムにこそ発揮されるのではないかと思っています。
そういう意味では、どちらも秀逸なコラムでした。
ただ、どちらかといえば、前者の「春秋」のほうが胸を打つものがありました。
また、後者の「天声人語」を読んで、小学生の頃、書道教室に通ったことを思い出しました。
私もコラムニスト氏と同じく、書道は苦手で、長く続きませんでした。
そして、コラムに書かれていた「二河白道」という言葉を初めて知りました。
ネットで調べると、三省堂の新明解四字熟語辞典に、次のような解説がありました。
『極楽浄土に往生したいと願う人の、入信から往生に至る道筋をたとえたもの。仏教語。
「二河」は南の火の川と、北の水の川。火の川は怒り、水の川はむさぼる心の象徴。
その間に一筋の白い道が通っているが、両側から水火が迫って危険である。
しかし、後ろからも追っ手が迫っていて退けず、一心に白道を進むと、
ついに浄土にたどりついたという話。
煩悩にまみれた人でも、念仏一筋に努めれば、悟りの彼岸に至ることができることを説いている。』
道を究めることの難しさと尊さを、今日の二つのコラムから学べたように思います。