しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

「災前」を自覚する日

年度末に退職が重なって、多忙な日々を送っています。

疲弊した精神と肉体で夕食に晩酌をした後は、日記を書く余力は残っていませんでした‥‥。(苦笑)


さて、今日、3月11日で、東日本大震災が起きてから10年となりました。

大震災の年の5月に孫娘が生まれたので、私は孫娘の歳を数えることで、

その年が大震災から何年目かを確実に知ることができます。


そして、今日の日経新聞一面コラム「春秋」と朝日新聞一面コラム「天声人語」には、

奇しくも「災前」という言葉を、それぞれのコラムニスト氏が使われていました。


『‥‥鹿(しし)踊り、神楽、虎舞(とらまい)‥‥。

 東北地方の沿岸部では、数多くの郷土芸能が守られてきた。

 海、山の厳しい自然と向き合い、生きる糧を得てきた人々の恐れや祈り、

 感謝の念が独自のスタイルで表現されている。

 同じ土地に生きたという一体感の基ともなるだろう。

 地域の防災や復興にとって重要な要素との指摘にうなずける。

 住民を分断や孤立から守る貴重な遺産でもあろう。

 南海トラフなど今後、高い確率で起きるとされる地震はいくつかある。

 震災から10年を経て、列島は「災前」にあるのだ。

 突然、非日常に投げ出された時、周囲と思いをひとつに、再建や復興に力を尽くせるか。

 その土台は作られているか。省みて、心もとないのである。』


『‥‥金菱(かねびし)清編「3・11慟哭(どうこく)の記録」に被災した71人が文を寄せている。

 祖母の手を引いて逃げようとした女性は津波にのまれ、その手を離してしまった。

 自分が助かった後も自責の念にさいなまれ、食べ物がのどを通らなかった。

 綴(つづ)られるのは「拾った命」の記録である。そしてその裏には多くの拾えなかった命がある。

 〈死ぬ側に選ばれざりし身は立ちてボトルの水を喉(のど)に流し込む〉。

 仙台市歌人佐藤通雅(みちまさ)さんが震災直後に詠んだ一首だ。

 佐藤さんは雑誌にこう書いた。

 無事で良かったと知人から言われるが「たまたま生き残る側におかれたにすぎないのに、

 個人の生存を祝われるのは、ひどく場ちがいな気がする」。被災地で多くの人が感じたことかもしれない。

 たとえ震災の当事者でなくても、いまこの地震列島で命をつないでいるのは、

 おそらく何かの偶然にすぎない。

 「災後(さいご)」であるとともに「災間(さいかん)」であり「災前(さいぜん)」。

 大震災から何年になろうとも変わらない事実である。』


私の故郷・愛媛も、いつ南海トラフ巨大地震が起きても不思議ではありません。

「3月11日」という日は、追悼の日であると同時に、「災前」に生きる自分を自覚する日でもあります‥‥。