新聞史上最高のコラムニストと評された深代惇郎さんだったら、このようなコラムを書いたのだろうかと、
一昨日11日の朝日新聞一面コラム「天声人語」の次の文章を読んでから、今日までずっと考えていました。
『千葉県野田市の小学4年生、栗原心愛(みあ)さんが亡くなってから半月余りが過ぎた。
胸がつぶれるような話ばかりが日々報じられる。
娘に虐待を繰り返す父親を、母親も止められなかった。
彼女は捜査当局に、こんな内容の供述をしているという。
「娘が暴力を振るわれていれば、自分が被害に遭うことはないと思った。仕方がなかった」。
矛先が自分に向かわぬよう娘へとそらしたとすれば、信じがたい保身である。
しかし、それと変わらぬ行動を、児童相談所や教育委員会もしていたのではないか。』
コラムニストのお怒りは当然のことで、私も同じ感情を持ち合わせていますが、
さりとて「信じがたい保身である」と、バッサリと切り捨てたような書きぶりには、
のどに小骨が刺さったような、何とも言えない違和感がありました。
一方、今月9日の日経新聞一面コラム「春秋」の冒頭は、次のような文章でした。
『親はわが子に、思いを込めて名前をつける。
生まれてくるときを夫婦で指折り数え、辞書と首っ引きであれこれ悩む。
そんな、幸せに満ちた日々があったのではないのか。
だからこそ娘に「心」「愛」という優しく温かい言葉を贈ったのではなかったのか。
それなのに。いつの間にか親の心の中に棲(す)みついた、魔物の所業としか思えない。
千葉県野田市の小学4年生、栗原心愛(みあ)さんが自宅で死亡した事件。
連日のように新たな、そして痛ましい事実が報じられる。
自分を愛してくれるはずの親から受ける暴力、救いを求めた大人たちの裏切り、
だれも助けてはくれないと悟った日の絶望‥‥。』
「信じがたい保身」か「魔物の所業」か‥‥。
どちらも言いたいことは、同じと言えば同じなのでしょうが、
前後の文章を比較すると、読者の受け止め方が随分と変わるような気がします。
深代惇郎さんだったら、後者のようなコラムを書いたのではないかと、私は思っています。
なお、先ほどの「天声人語」の締めくくりの文章は、次のようなものでした。
『検証も対策も、一刻を争う。だれかたすけて。
そんな小さな声はこの瞬間も、どこかから発せられているのだ。』
はぃ、これはもうおっしゃるとおりで、
これほどまでに痛ましく辛い事件は、もう二度と起こってほしくありません。