しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

関係再構築の難しさ

今日28日の朝日新聞デジタル版「論壇時評」に、

歴史社会学者の小熊英二さんが、『ゲーム依存と核 関係性の歪み、北朝鮮にも』

というタイトルの論評を寄稿されていました。


小熊さんは、「ゲーム依存症」と「北朝鮮の核問題」が似ているとして、

まず、依存症について次のような解説をされています。

『つまり依存症とは、社会関係の歪(ゆが)みから生じる病なのだ。

 関係の歪みから依存になると、関係がますます歪み、さらに依存が深まる。

 強制して一時的にやめさせても、当人の社会関係が変わらないとすぐ依存が再発する。

 周囲の人がやるべきことは、説教や恫喝ではなく、社会関係の再構築を助けることだ。』


そして、核依存となった北朝鮮については、次のように述べられていました。

『いちど核依存になった国は、圧力だけかけても効果は薄い。

 北朝鮮も同様だ。全面戦争で双方に大量の犠牲者を出したいのでなければ、

 関係を再構築していくほかない。

 その具体策を考える際には、日本自身が、安全保障上の不安をやわらげる国際関係なしには

 核武装をあきらめなかったことを念頭におくべきだ。 だが論壇には、北朝鮮への強硬論が多い。

 なかには日本も核武装するぞと脅せばいいとの主張もある。

 いわく、「日本は核論議を活発化させ、

 国際社会にもっと北朝鮮問題に真剣に立ち向かうようプレッシャーをかけるべきだろう。

 (日本は)放っておくと何をやるか分からない国だと思わせておいた方が、

 交渉は有利となる」。この2月には元駐米大使までもが日本核武装の議論を提言した。

 短期的利害のために他国の不信感を煽(あお)るのは、慎重にするべきだ。

 理想論をいうつもりはない。

 しかし、力で恫喝すれば何でも解決すると考えるのは非現実的であり、幼稚である。

 外交とはすなわち、国際関係を再構築する努力にほかならないはずだ。』


う~む、なるほど‥‥。

「外交とはすなわち、国際関係を再構築する努力にほかならない」というのは、

確かにそのとおりなのだと思います。

でも、それがこれまで通用しなかったのが北朝鮮という国ではないのでしょうか?

日本核武装の議論に与するわけではありませんが、

この世の中には、社会関係を再構築したり、あるいは国際関係を再構築したりすることが

極めて困難な「相手」がいることだけは、悲しい現実だと思います。

そして、この悲しい現実の解決策に思考が働かない自分がいて、さらに悲しい気持ちになります。

道徳教育の方向性を学ぶ

昨日26日の朝日新聞デジタル版「耕論」は、『道徳どう教えれば』というタイトルで、

3人の有識者が、それぞれのお考えを披歴されていました。

いずれもごもっともなご意見でしたが、そのなかでも私は、

苫野一徳・熊本大学教育学部准教授の、次のような考え方に共感を覚えました。


『公教育で大切なことは、すべての子どもたちが自由に、生きたいように生きられる力を育むことです。

 そのためには、互いの自由もまた認め合う必要がある。哲学ではこれを「自由の相互承認」と言います。

 どのようなモラルを持っていても、それが他人の自由を侵害していない限りは認め合う。

 この「ルール感覚」こそ学校で育むべきです。

 この原則を踏まえれば、道徳教育をどうすればいいのかが見えるはずです。

 例えば学校が決めた校則を、皆がより納得し、互いにより自由になるために作り直す、

 といった経験を積むような教育です。

 ところが道徳の学習指導要領では、ルールは「守ること」になっています。

 日本では、「ルールは与えられ、無条件に従うもの」と考える人が多いですが、

 本来は多様なモラルを持っている人たちが、互いに自由に生きられるために作り合うものです。

 道徳教育も、本来はそのような市民社会や公教育の本質に立ち戻らなければなりません。

 文部科学省が唱える「考え、議論する道徳」というコンセプトには賛成です。

 でも教えるべき内容や項目が決まっていれば、それは茶番です。

 意見を言いっ放しで、「答えはない」で終わってしまうことも望ましくありません。

 争いを避けるために、時には「共通了解」を見いだし合うことが求められます。

 そこで私は、もっと本質的な議論をするためにも、「哲学対話」や子どもたち自らが問いを立てて実行する

 「プロジェクト型」の道徳教育などを提案しています。』


う~む、なるほど‥‥。

私が小・中学生の頃にも、週一回、「道徳の時間」があったように記憶していますが、

そこでどのようなことを先生から教わったのか、ほとんど思い出すことができません。

でも、よくよく考えてみれば、そもそも「道徳」という概念はあいまいで、

社会で生きていくうえでのマナーやルールというのは、

主として親から教えてもらうか、学校での集団生活を通じて、自然と身に付けてきたように思います。


今回、苫野准教授の「本来は多様なモラルを持っている人たちが、

互いに自由に生きられるために作り合うもの」という言葉に触れて、

道徳教育の目指すべき方向性が、私にもおぼろげながら見えてきたような気がしました。

違いはどこに?

日経新聞に連載中の阿刀田高さんの「私の履歴書」、

第25回目の今日は、「外国語~読むことで深める理解~小学校での英語教育に異論」

というタイトルの内容でした。

阿刀田さんは外国語教育について、次のような持論を述べられていました。


『外国語を聞いたり話したりする教育をほとんど受けなかったし、

 外国人に接する機会も乏しかったのだから、これができないのは当然である。

 昨今は早くからの“話す、聞く”の教育が叫ばれ、もてはやされているが、

 私としては「読むことも大切ですよ」と、これを軽視してはなるまい、と考える立場である。

 話して聞いて外国人と意思を疎通することも大切だが、

 なにか深いことを本当に理解するとなると、やっぱりしっかりと読むことが欠かせない。

 日本語だって複雑なことをちゃんと知るためには読まなければなるまい。

 講義を聴き、資料もないままデベートをしたって深淵は極めにくい。

 知識を深めるためには(ITの時代は少し様子が変わるかもしれないが)

 現状では本を読むことが肝要なのだ。

         ~ (中略) ~

 昨今、小学校での英語教育が‥‥

 とりわけ“話す、聞く”に重点を置く早教育が叫ばれているが、私は旧習を守って、

 「日本語が先」のほうである。

 英語の早教育を実施するなら、まずシステムを確立することだ。

 小学校の教師に制度として(教職課程の中で)英語を教えることを

 しっかりと伝授しないで“教えなさい”はおかしい。

 小学校から中学校へこの教育をどうつなげるか、これもちゃんと検討しなければなるまい。

 あれこれ綴(つづ)ったが、私は自分の読むこと中心の外国語学習を後悔していない。』


う~む、なるほど‥‥。

私もご多分に漏れず、中・高校時代にあれほど英語を勉強したのに、

「話す」「聞く」はおろか、「読む」こともできません‥‥。(トホホ)

もっとも、アメリカに1年間留学した娘が、人前で英語を話すところを見たことがありません。

あの教育投資はいったい何だったのでしょう‥‥?

それにひきかえ、在日外国人の皆さんが日本語を流暢に話されるのには、

正直、驚いてしまいます。この違いはどこにあるのでしょうね‥‥?

消えずに残っている夢

日経新聞に連載中の池上彰さんの「大岡山通信 若者たちへ」、

今日25日は「経済学を楽しむ」というテーマでした。


池上さんは、経済学の役割を「資源の最適配分を考える学問」と整理されたうえで、

『地球上の多くの資源には限りがあります。

 その最適配分を考え、いかに最大の効果を得るのか考え抜く学問です。

 日本のように資源がなく、人口が減り始めている国では、

 学校で学び、社会へ出る若者たちも貴重な資源です。』と述べられていました。


そして、経済学を学ぶ際には、

次の4つのポイントを身につけることが大切だと指摘されていました。

 ・世の中を分析する力

  お金の動きや取引の仕組みなど、現実の世の中を知る力のこと

 ・課題を見つける力

  日本は豊かな国になつたが、

  最近は格差や子どもの貧困といった問題点が指摘されるようになった。

 ・課題の解決へ提案する力

  経済や社会が直面する課題を考え、学問的に解決する方法を打ち立てることが必要。

  そもそも経済学はお金持ちになるための学問ではない。

 ・人間を知る力

  たとえば「なぜこの商品が売れるのか」

  「消費者を効率的に誘導する陳列方法には法則があるか」など

  経済学は理論だけでなく、最近は人間の心理や欲も対象に分析する学問でもある。


そして、記事の最後では、若者たちに次のように呼び掛けられいました。

『世界史を振り返れば、国家や人間は貧困や恐慌というリスクと向かい合ってきました。

 経済学者らはそうしたリスクの解決のために経済理論を築きました。

 豊かな暮らしを実現する、時代の“処方箋”だったのです。

 経済学部の志願者数は景気の動向によって左右されます。

 これも「需要と供給」の関係でしょうか。

 少子高齢社会を迎え、新たな日本を築く時代の処方箋が求められています。

 チャレンジしてみませんか。』


私はもうすでに若者ではありませんが、

「子どもの頃に肌で実感した高度経済成長は、なぜ日本で可能だったのか」とか、

「なぜバブル経済は生じ、そして崩壊したのか」とか、

「デフレ経済の真因は、本当は何だったのか」などに関心があり、

「もう一度、大学で経済学という学問を勉強してみたい」という夢は、未だ消えずに残っています。

行動哲学の源泉を見る

有難い休日の「梅雨の晴れ間」となりました。

シーツを洗濯し、布団を干して、気持ちも同時に「洗濯」できたように思います。


さて、今日の日経新聞「The STYLE」の「My Story」は、

伊藤忠商事会長兼CEOの岡藤正弘さんでした。

記事によると、岡藤さんの人生の欠かせない一部がファッションで、

スーツは毎年、春夏モノと秋冬モノを各10着はつくり、靴は革靴だけで100足以上あり、

自宅には靴を収納するための小部屋をしつらえているそうです。

時計や眼鏡、ネクタイは言うに及ばず、ベルトまでずらり数十種類あるとのことでした。

岡藤さんいわく、「ファッションはコーディネートが肝心。高級でなくてもええから、

眼鏡から靴や靴下まであわせんといかん」。その巧拙はビジネスにも通じる‥‥。


う~む‥‥。(絶句) 

私なんか、スーツは全部で5着、通勤用の靴は3足しかありません。

プライベートな外出着になるとさらに悲惨な状態で、

妻からは「あなたはセンスがないので、一緒に行動したくない」とまで言われています。(トホホ)


なお、同じ記事の中には、岡藤さん自筆の

「自ら限界をつくる者は 自ら成長の機会を失う」という言葉がありました。

岡藤さんの「行動哲学」の源泉を見たような思いで、私もなんとか見習いたいものです。


ところで、今日の24時から、サッカーW杯の「日本」対「セネガル」の試合があります。

朝5時起床の私にとってはほとんど徹夜になるので、残念ながら観ることはできませんが、

夢のなかで日本代表を力の限り応援したいと思っています。