日経新聞電子版で連載されていた
一条真也さんの『人生の修め方』というコラムが最終回を迎えました。
私は、毎回このコラムを楽しみにしていただけに、とても残念に思います。
その最終回のコラムは、「別れてもまた会える」というタイトルでしたが、
世界中の言語における別れの挨拶についての、次のような記述が印象に残りました。
『考えてみれば、世界中の言語における別れの挨拶に
「また会いましょう」という再会の約束が込められています。
日本語の「じゃあね」、中国語の「再見」もそ うですし、
英語の「See you again」もそうです。
フランス語やドイツ語やその他の国の言葉でも同様です。
これは、どういうことでしょうか。
古今東西の人間たちは、つらく、さびしい別れに直面するにあたって、
再会の希望をもつことでそれに耐えてきたのかもしれません。
でも、こういう見方もできないでしょうか。
二度と会えないという本当の別れなど存在せず、
必ずまた再会できるという真理を人類は無意識のうちに知っていたのだと。
その無意識が世界中の別れの挨拶に再会の約束を重ねさせたのだと。
そう、別れても、わたしたちは必ず再会できるのです。
愛する人を亡くした人は、「また会えるから」という言葉を合言葉に、
愛する人との再会の日を楽しみにして生きてほしいと思います。』
う~む、なるほど……。
世界中の別れの挨拶に再会の約束が込められていることを初めて知りました。
確かに、愛する人との別れは、再会の希望がないと辛すぎるかもしれません。
一方では、ドイツの詩人、ハンス・カロッサの言葉に、
「人生とは出会いであり、その招待は二度と繰り返されることはない」
という名言があります。
こちらは、「一期一会」という意味が込められているのでしょうね。
いつかまたきっと会えると信じて今の人と別れ、
もうこれっきり会えないと覚悟して今の人との出会いを大切にする…。
けだし、どちらも「人生の真理」だと思います。