日経新聞の一面コラムは「春秋」、朝日新聞の一面コラムは「天声人語」‥‥。
そして、地元紙・愛媛新聞の一面コラムは「地軸」といいます。
今日15日の「地軸」は、東京・銀座の公立小学校で、
イタリア「アルマーニ」製の制服を導入するという話題についてのコラムでしたが、
そのコラムの後半部分は次のような内容でした。
『個々の児童を伸ばすために学校はある。
なのにこれでは、学校を良く見せるために児童がいるようなもの。発想があべこべだ。
高級ブランドの力を借りてしか学校の良さをつくれないのだとしたら、何とも貧しい教育。
しま模様くっきりのイシダイも、愛嬌(あいきょう)あるキンメダイも、
多種多様に豊かな海を彩る。寒空の下、運動場を駆け回る子の歓声が聞こえる。
ボールを追い掛け、泥んこ遊びに夢中になる姿は、それだけで美しい。
輝かせたいのは学校のブランドではなく、一人一人の笑顔。』
う~む‥‥。以前から気にはなっていたのですが、このコラムの「児童がいるようなもの。」とか、
「何とも貧しい教育」とか、「一人一人の笑顔」のように、
「地軸」のコラムニストは、「体言止め」の使用が多いように思います。
例えば、「児童がいるようなものだ。」とか、「何とも貧しい教育ではないか。」とか、
「一人一人の笑顔である。」ではだめなのでしょうか?
ちなみに、昨日14日の日経新聞「春秋」も、同じ話題を扱った次のようなコラムでした。
『昭和初期の帝都をルポした今和次郎の名著「新版大東京案内」に、
銀座の泰明小学校が出てくる。関東大震災からの復興を機に、
とびきり贅沢(ぜいたく)に仕立てた校舎は考現学者の目を大いに引いたようだ。
外国人にも恥ずかしくない「超モダン」な建築だと驚きの筆致である。
校舎はいまも健在で、美しい曲線、半円形の連続窓、おしゃれな門扉など銀座の街によく似合っている。
公立とはいえ、伝統のブランド校なのだ。
住民は少ないから校区外から積極的に子どもを受け入れ、お金持ちの保護者が多いと聞く。
いま世間を騒がせている「アルマーニ制服問題」は、そういう学校らしい出来事だ。
イタリア高級ブランドの「標準服」、つまり事実上の制服は一式8万円を超すという。
いかに泰明小でもやり過ぎだ、親たちへの説明が足りぬ、などとかまびすしいが、
非難のなかには公立校は清貧を旨とすべし、みたいな気分も漂っていよう。
何か派手なことをすると「炎上」する社会の空気を映しているかもしれない。
育ち盛りにセレブ服は不釣り合いだし、買えない家庭への配慮はもちろん必要だ。
しかし義務教育にもさまざまな試みがあっていい。
90年も昔、こんなモダン校舎を建てた先人だってずいぶん冒険したのだろう。
多様性を認める気風があったのだ。
もっとも、そう考えればいっそのこと、制服なんかやめるのも手ではある。』
全文を引用させていただきましたが、ご覧のように、
このコラムには「体言止め」は一か所も登場しません。
おそらく、「体言止め」の使用は、文章全体の流れやバランスが問題なのだと思います。
文章が下手くそな私が偉そうなことを書きましたが、
ほぼ毎日のように「体言止め」が登場する「地軸」に、個人的な感覚かもしれませんが、
若干の違和感を感じています。