認知行動療法研修開発センターの大野裕先生が執筆されている日経新聞「こころの健康学」‥‥。
今日19日のタイトルは『知識と知恵の違いとは』でしたが、
とても大切なことを書かれていたので、今回もその全文を引用させていただきます。
『受験の時期になると、私が大学勤務のころに、試験監督をしたことを思い出す。
3年も受験を続けた大学浪人時代の苦労を考えれば、
監督するのは気楽なものかと思いながらも、それなりに緊張して取り組んでいた。
受験会場で問題に取り組む受験生の机の間を歩いて行くと、
書き込んだ解答が私の目に入らないように体で試験用紙を覆う受験生がいた。
試験監督の私が解答を読んで、できが悪いと思うとでも考えたのだろうか。
だが、私には試験の答えなど全くわからない。高校時代に習ったことなどすっかり忘れてしまっていた。
それがどのようなものか説明しろといわれても全く思い出せない。
そうだとすると、高校時代に勉強することなど役に立たないのではないかと考える人がいる。
実際に、高校生にそのように尋ねられたこともある。
そうした質問に私は若干戸惑いながら、知識と知恵の違いを説明するようにしている。
微分や積分、物理の公式、英語の長文読解など、高校時代や受験浪人時代に習った知識は、
一部記憶に残っていても、忘れていることが多い。
しかし、そうした知識を学んだときの基本的な考え方はいつまでも記憶に残っている。
ひとつの問いに対して解に至る道が複数あることを数学で学び、
地域によって生き方の違いがあることを地理で学んだ。
物理では、真実を求めて美しい説明のプロセスを探す大切さを学び、
じつに様々な知恵を学べていたのだと、今になって実感している。学びにムダはないとつくづく思う。』
大野先生がおっしゃっているように、私も、高校時代や受験浪人時代に習った知識は、
今となっては「木っ端みじん」になってしまいました。
英語、数学、世界史、日本史、生物‥‥。教科書や参考書に赤線を引きまくって勉強したのに‥‥。
まるで「受験生ブルース」の、「大事な青春むだにして 紙切れ一枚に身をたくす」かのように‥‥。
でも、ふとしたことで、はるか昔の記憶がよみがえったり、
習得した知識が物事の判断基準になったこを、ずっと後になって気づくことがあります。
勉学というものは、そもそもそういうものなのかもしれません‥‥。
できれば、もう一度、大学で学び直したい、それが今の私の、現実には実現が難しい希望となっています。