しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

ヒューマニストへの険しい道

今日の日経新聞「文化」欄に、作家の島田雅彦さんが、

『今日のヒューマニズム』というタイトルの論評を寄稿されていました。

島田さんは「今日におけるヒューマニズムとは何か」について、次のように述べられていました。


ヒューマニズムとは方便でも免罪符でもなく、

 何かしらの矛盾や問題を孕(はら)んだ現実にあって、

 なるべく禍根や最悪の事態をもたらさないように行動すること、またはその態度のことである。

 たとえば、行政における不正をチェックすること、歴史や公文書を改ざんさせないこと、

 疑惑の真相を解明することがそれに当たる。

 また、差別やいじめを受けている人を庇(かば)い、孤立無援ではないと励ますこと、

 ヘイト・スピーチをする相手にその理由を訊(たず)ねたり、誤解を解いたりすることでもある。

 その努力によってかろうじて社会の平等や公明正大が実現する。

 しかし、組織や仲間内の同調圧力が強い中で、それを実行するには相応の覚悟が必要で、

 孤立の危険も冒さなければならない。どの組織も表向き多様性や寛容の精神を重視するものの、

 それ以上に同調圧力が強いので、誰しも目立たないよう振る舞おうとし、

 またそれが「賢いやり方」、「大人の対応」と見做される。

 誰もが日常においてハムレットである。多数意見に異議を唱えるにも、デモ規制の柵を倒すにも、

 上からの指令に「それは不正です」というにも、逡巡(しゅんじゅん)してしまうのだ。

 しかし、ここで蛮勇を奮って、ヒューマニストたらんとする者には大きな利得がある。

 新たな仲間との出会い、意外な人物からの共感、

 そして小さくガッツポーズを決めたくなる自己満足を得られることは確かである。』


う~む、なるほど‥‥。この論評の前半部分で島田さんは、

ヒューマニズムは狭義にはルネッサンス以降の人文主義のことだが、

転じて博愛、人道、教養を謳(うた)う態度を指すようになった。

その萌芽(ほうが)期には専制君主や教会権力の横暴からの解放、市民意識の覚醒、

個人の自由の追求といった社会変革を伴っていた。」と解説されていましたが、

私も今まではこの解説のように、「ヒューマニズム」=「博愛主義」だと理解していました。


それが、島田さんによると、「今日のヒューマニズム」とは、

「何かしらの矛盾や問題を孕(はら)んだ現実にあって、

なるべく禍根や最悪の事態をもたらさないように行動すること、またはその態度のこと。」

そうだとすると、私はどうなのか‥‥? 

「相応の覚悟」を持たない私には、ヒューマニストへの道は険しいように感じました。