今日の日経新聞「経済教室」に掲載された、野口雅弘・成蹊大学教授の執筆による
『官僚制の劣化を考える(下)~政党政治の劣化こそ問題』というタイトルの論考が大変勉強になりました。
まず、野口教授は、「政治家と官僚」について、
マックス・ウェーバー「仕事(職業)としての政治」から、次のようにその相違点を整理されていました。
〇基本原則
政治家⇒憤りと偏り(党派性・闘争・情念)
官 僚⇒憤りも偏りもなく(非党派性・合理性・冷静さ)
〇名誉
政治家⇒(自らの選択・決断に対して)責任を負うこと
官 僚⇒あたかもその命令が自分自身の信念と一致するかのようにやり通すこと
〇逸脱形態
政治家⇒党派性をあいまいにし、批判を受けないように「粛々と」振る舞う
官 僚⇒官僚が政治的決定をする「官僚政治」
そして、この点を踏まえ、「官僚制の劣化」について次のように述べられていました。
『行政改革では、以上のような政官関係が是正され、「政治主導」が強化されてきた。
この流れは橋本行革から、「官から民へ」を掲げた小泉政権、「脱官僚宣言」を唱えた民主党政権を経て、
安倍政権における内閣人事局の創設にまで至った。
テクノクラート(高級官僚)の支配はいまや完全に過去のものになったといえるだろう。
しかしながらその結果、政治家が決定し、官僚が中立的かつ効率的に行政を行う、
というウェーバー的なモデルに現実が近づいたのかといえば、どうやらそうではなさそうである。
官僚制の「劣化」といわれるのは、まさにこの局面にかかわっている。
「政治主導」が進み、官僚の人事権も首相官邸が握ることで、
本来であれば政治の圧力から自律的であるべき領域が脅かされるようになってきた。
特に公文書、統計資料など、国民すべてに平等に開かれているはずの土台のところで疑念がもたれている。
官僚制の「劣化」として語られているものは、
パブリックな議論には耐えられない政治的な「横槍(よこやり)」を払いのけることができず、
官僚制の合理性を貫徹することができなくなっている現実を指す。
さらに、論考の締めくくりとして、次のように述べられていました。
『現代の官僚制を測るモノサシは、高度経済成長期のレジェンドとして語られる官僚ではない。
日本の現実にはそぐわない、といわれてきたウェーバー的なモデルを、モノサシとしなければならない。
このモデルが可能になるのは、大事なことが選挙の争点にされ、
政策をめぐる競争が「ガチ」で行われ、
政権交代の可能性が常にそれなりにある、という緊張関係が前提になる。
政策をめぐる競争が形式だけになり、「忖度」する以外に自己実現の道が閉ざされつつあるなかで、
官僚の「忖度」を「劣化」呼ばわりして非難するというのでは、あまりに彼ら・彼女らが気の毒である。
問題は官僚組織の側ではなく、競争が名ばかりになっている政党政治の側にある。』
実は、地方公務員であった私が、この論考で一番印象に残ったのは、
マックス・ウェーバーの、「あたかもその命令が自分自身の信念と一致するかのようにやり通すこと」
という箇所でした。この点では、国家公務員も地方公務員も同じたと思いますし、
これを一生涯貫けられれば、それだけで幸せな公務員人生なのだと思います。
(論考とはあまり関係のない、支離滅裂な感想となってしまいました。ゴメンナサイ‥‥)