『思春期を揺さぶる「文学」が危ない』というタイトルで、次のようなことが書かれていました。
『高校時代の授業の中身を今もはっきりと覚えている方はどれほどいるのだろうか。
学業をさぼってばかりいた身にとって、45年も前の記憶はおぼろで、
各学科の先生の名前もよく覚えていない。
それでも、はっきりと思い出すことができるのは、国語の教科書に載った夏目漱石、森鴎外の小説や、
高村光太郎らの詩に触れた時の驚きである。たとえば、中島敦「山月記」。
才知に秀でた李徴は、官吏として出世できず、詩人としても大成しない。
自尊心の強い彼はその不遇に憤るあまり、ついに発狂し、虎になってしまう。
この強烈な物語を読んだ時の衝撃は、漢語を交えた切れ味鋭い文章とともに忘れがたい。
あるいは夏目漱石の「こころ」。下宿先のお嬢さんを巡って親友Kと三角関係に陥り、
Kを自殺に追い込んだ「先生」の遺書の告白は、異様な重みで心に迫った。
やがて精神を病む智恵子との至福の愛のひとときをうたう高村光太郎「樹下の二人」といった詩は、
思春期の心を揺さぶらずにはおかなかった。』
この文章から拝察すると、どうやら筆者は私とほぼ同世代のようです。
ですが、筆者と違って私は、高校時代の国語教科書に、どんな近現代文学の名作が載っていたのか、
どうしても思い出すことができません‥‥。
ただ、国語の授業内容を題材に、帰宅時の郊外電車の中で、親友と人生を大いに語り合ったことは、
いまでもはっきりと覚えています。
ところが、記事によると、新学習指導要領の大改訂が実施される22年度からは、
高校の国語教育が大きく変わることになり、近現代文学の名作を学ぶのは、
必須科目「言語文化」2単位の内、古文漢文を除いた時間だけで済ます生徒が多くなり、
今のままでは、「こころ」を学ばすに卒業する生徒が増えることになる、と筆者は指摘されていました。
そして、筆者は、次のようなことを述べられていました。
『かつてのおちこぼれからすれば、受験勉強偏重の中で、国語の授業で触れた文学からは、
人間の弱い心に寄り添う声が届き、救われた。
功利や目先の実用では解決できない人間の弱さを深く知り、共感する。
その経験が、生きる際の大きな糧となることを、忘れては困る。』
高校卒業後にようやく文学作品の名作に親しむようになった私は、今から思えば、
高校時代の国語の授業に影響を受けたことは間違いなく、
「思春期を揺さぶる文学」との出合いについての筆者のご指摘は、誠におっしゃるとおりだと思います。