今月9日は「漱石忌」、夏目漱石が亡くなってから「百回忌」に当たるそうです。
そのせいかどうか分かりませんが、夏目漱石とその門下生の芥川龍之介のことが
今月9日の朝日新聞「天声人語」と日経新聞「春秋」に掲載されていて、
それぞれ興味深く読みました。
まず、朝日新聞「天声人語」には、夏目漱石のことが、次のように書かれていました。
(全文は長くなるので、抜粋して引用しました。)
『年の瀬の日々。忙中のふとした閑(かん)に、漱石の一句が胸に浮かぶ。
〈行(ゆ)く年や猫うづくまる膝(ひざ)の上〉。
きょうは夏目漱石が没して99年の命日。
来年は100年の節目だから、
記念の行事やら出版やら、泉下の文豪も身辺が賑(にぎ)やかなことだろう。
~(略)~
漱石が、国からの博士号授与を断った話はよく知られる。
そのときの言葉がいい。
「今日までただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、
これから先もやはりただの夏目なにがしで暮らしたい」。
権威に向き合う自由な精神にあふれている。
そして再来年は生誕150年と聞けば、五十路(いそじ)に届かぬ生涯が惜しい。
〈倫敦(ロンドン)に時差のねぢ巻く漱石忌〉阿波谷和子。
汲(く)めども尽きぬ泉から、文豪を味わい尽くす機となればいい。』
芥川龍之介のことが、次のように書かれていました。(これも抜粋です)
『今年は、その地を舞台に芥川龍之介が王朝物「羅生門」を発表して、
1世紀という。大修館書店の冊子「国語教室」にあった。
日本のほぼ全ての高校生が教科書で読む「青春の教材」なのだが話は重い。
飢え死にせぬために、女の死体から毛髪を抜いて売ることをよしとする老婆と、
行き場のない下人の対話が山場である。
憤った下人は「では己(おれ)をも恨むまいな」と老婆の着物をはぎ、
闇夜へ去った。
生きるためと称する身勝手な論理に、自らの行動と言葉で反論し、
一歩を踏み出したのだ。
読み手の少年少女は、この場面に矛盾だらけの現実に対峙せねばならぬ、
自分の将来像を重ねるだろうか。自立の意味をも問い、100年を経た名作だ。』
私は恥ずかしながら、夏目漱石の作品は、
『こゝろ』や『坊つちやん』は読んだことがありますが、
それ以外は読んだ記憶がありませんし、
芥川龍之介に至っては、話のあらすじは知っていても、
その著書を読んだことがありません。
ところで、夏目漱石は愛媛・松山に深い縁があります。
多くの松山ゆかりの門下生たちが駆け付けたことが紹介されていました。
最期をみとった主治医も愛媛県人の真鍋嘉一郎だったそうです。
正岡子規との交流や愛媛県尋常中学校(現・松山東高校)赴任を機に始まった
愛媛・松山との縁が、終生つながっていた夏目漱石…。
そして、その門下生の芥川龍之介……。
日本を代表する二人の文豪の、世紀を経た名作を、
これからもっともっと「味わい尽くす」必要がありそうです。