今月1日の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は、ドイツの哲学者・ニーチェの
『「われはそれを好まぬ」‥‥何ゆえに?‥‥「われはいまだそれにふさわしくないゆえに」
‥‥かつてかく答えた何人があったろう?』という言葉で、
いつものように鷲田清一さんの、次のような解説がありました。
『「私とは何者であるか?」という問いも、「それ」の一つかもしれない。
自身の存在を考えるにあたってまっ先に問うべきは、
そうした問いを発する資格が自分にあるかどうかということだ。
他者にはあざやかに映っているのに自分には死角に入って見えないものがないかを糾(ただ)すこと。
う~む、なるほど‥‥。
「自分には死角に入って見えないものがないかを糾(ただ)すこと。」ですか‥‥。
ドキッとするような言葉です。
私はというと、「死角に入って見えないもの」だらけのような気がします。
でも、そもそも「死角に入って見えないもの」って、いったい何なのだろう?
それが分からない限り、「私とは何者か?」を問いかける資格はないということなのですね‥‥。
再び、う~む‥‥。分かったような、分からないような‥‥。これが「哲学」なのかな?