しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

大切な「哲学的問い」

一昨日、町立図書館で一週間分の朝日新聞一面コラム「折々のことば」をまとめ読みしていた時に、

もう一つ印象に残った記事がありました。それは、10月28日(金)のオピニオン欄「耕論」です。


「弔い これからのかたち」というタイトルで、三人の有識者の論考が掲載されていましたが、

そのなかでは、社会学者・中筋由紀子さんの「私らしさ 死後も失わない」という論考が印象に残りました。

中筋さんはこの論考で、次のようなことを述べられていました。


『死という現象を通して観察したとき、現代社会の特徴は、「自分にとって意味ある親密な他者の死」と

 「自分には無関係な見知らぬ他者の死」がはっきり分断されていることだと思います。

    ~ (中略) ~
 
 私らしさの重視は、死や葬儀のあり方をどう変えていくのでしょう。大きく二つの方向性があると思います。

 一つは、「こういう人間として私を覚えておいてほしい」という自らの希望に沿って

 死や死後をデザインする方向です。SNS上にも見られる自己表現の世界であり、

 人々は「価値があると私自身が思えるもの」を集めて、キラキラした希望を描きます。

 もう一つは、親密圏の外にいる誰かとのつながりを作り出す中に、

 死や死後の世界を見いだそうとする方向です。

 そもそも、何が自分の個性なのかを知っているのは自分だけとは限りません。

 他人から言われて気づく自分らしさもあるでしょうし、

 その他人との関係は、家族のように強固で持続的なつながりでなくてもかまわないはずです。

 二つの方向のうちどちらが普遍的なのかまだ分かりません。

 ただ私自身は今のところ、人に何かが通じたと思える体験が大事なのではないかと思っています。

 互いに死にゆく者として関わり合うつながりを通してこそ、

 人は「自分は何者として死ぬのか」を確認できると思うからです。』


う~む、なるほど‥‥。

私がこの日記を書き続けているのは、中筋さんが指摘されている二つの方向のうち、

前者の方向に該当するのかもしれません。

いずれにしても、「自分は何者として死ぬのか」というのは、大切な「哲学的問い」なのだと思いました‥。

その問いに対する答えの一つが、「人に何かが通じたと思える体験」という理解でいいのでしょうか‥‥?