しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

他人のなかに生きる

『死と生』(佐伯啓思著:新潮新書)を読了しました。

本書の帯紙に『「死」とは何か。なぜ、怖いのか。死ねば、どこへゆくのか。』という

人間にとっての究極の問い掛けが書かれていて、しかも、著者が保守の論客の佐伯啓思先生だったので、

書店で迷うことなく購入しました。

いくつか印象に残る記述があったのですが、そのなかで次の二つを書き残しておきます。


・われわれが気にしているのは、死そのものではなく、死のほんの少し手前、

 つまり、死にゆく、その最後の生の在り方です。「死」ではなく「死に方」なのです。

 「死」は経験できませんが、「死に方」は経験できるのです。いやそれどころではありません。

 いやおうなく「経験」させられてしまうのです。この経験から逃れることはできません。

 それが恐ろしいのではないでしょうか。


・死を論じるということは実は生を論じることにもなるのです。

 人間は死すべき存在である、という命題はまた、人間は死を意識しつつ死へ向かって生きる、

 ということも意味し、これはまさに生き方を論じるこでもあるのです。

 「死」と「生」は対の問題です。にもかかわらず、往々にして、「死」はただ「生」の切断であり、

 「生」を終わらせるものだ、と考えられがちです。

 そうではなく、「死」、正確には「死への意識」が「生」を支え充実させることもあるのです。
                                                  

う~む、そういうものなのかな‥‥。よく分かったような、やっぱり分からないような‥‥。

ところで本書では、先人や宗教の「死」についての考え方が紹介されていましたが、

私はそのなかでも、トルストイの次のような「死生観」に共感を覚えた次第です。
                                             

『私の生の根本は、とっくの昔に死んだ人々の「生命」からなっており、

また、私の肉体の消滅後も、私は他人のなかに生きることができる。』

佐伯先生は、このトルストイの「死生観」を

『一方には生も死も「無」であるという意識があり、他方には、生も死も超えた永遠の「生命」がある、

というふたつの極をもっている。』と述べられていました。


果たして私は、死後も「他人のなかに生きること」ができるのか‥?

今の自分の「生き方」では、難しいと自覚しています。

死と生 (新潮新書)

死と生 (新潮新書)