本書の帯紙に『「死」とは何か。なぜ、怖いのか。死ねば、どこへゆくのか。』という
人間にとっての究極の問い掛けが書かれていて、しかも、著者が保守の論客の佐伯啓思先生だったので、
書店で迷うことなく購入しました。
いくつか印象に残る記述があったのですが、そのなかで次の二つを書き残しておきます。
・われわれが気にしているのは、死そのものではなく、死のほんの少し手前、
つまり、死にゆく、その最後の生の在り方です。「死」ではなく「死に方」なのです。
「死」は経験できませんが、「死に方」は経験できるのです。いやそれどころではありません。
いやおうなく「経験」させられてしまうのです。この経験から逃れることはできません。
それが恐ろしいのではないでしょうか。
・死を論じるということは実は生を論じることにもなるのです。
人間は死すべき存在である、という命題はまた、人間は死を意識しつつ死へ向かって生きる、
ということも意味し、これはまさに生き方を論じるこでもあるのです。
「死」と「生」は対の問題です。にもかかわらず、往々にして、「死」はただ「生」の切断であり、
「生」を終わらせるものだ、と考えられがちです。
そうではなく、「死」、正確には「死への意識」が「生」を支え充実させることもあるのです。
う~む、そういうものなのかな‥‥。よく分かったような、やっぱり分からないような‥‥。
ところで本書では、先人や宗教の「死」についての考え方が紹介されていましたが、
私はそのなかでも、トルストイの次のような「死生観」に共感を覚えた次第です。
『私の生の根本は、とっくの昔に死んだ人々の「生命」からなっており、
また、私の肉体の消滅後も、私は他人のなかに生きることができる。』
佐伯先生は、このトルストイの「死生観」を
『一方には生も死も「無」であるという意識があり、他方には、生も死も超えた永遠の「生命」がある、
というふたつの極をもっている。』と述べられていました。
果たして私は、死後も「他人のなかに生きること」ができるのか‥?
今の自分の「生き方」では、難しいと自覚しています。

- 作者: 佐伯啓思
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2018/07/13
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