日経新聞の文化欄で連載が続いている「疾病の文明論」、
第四回目の今日は、記号学者の石田英敬さんが「病の表象を見る」というタイトルで、
次のような論評を寄稿されていました。
『「この世はひとつの病院であり、患者どもの各々(おのおの)はベッドを移ることを
ひたすら願うばかり」と喝破したのは「パリの憂鬱」(1869)の詩人ボードレールだった。
近代の産業資本主義は世界の病院化を促進した。
哲学者ミシェル・フーコーが「生政治」と呼んだ統治の技術が、
経済的リベラリズムと社会国家の原動力となったからである。
生政治とは、人びとの生に、出生・育児・健康・事故・老後・死にわたって関与し、
社会生産のために生かしてゆく「政府による統治」をいう。
個人や家族の生に働きかけると同時に、社会をマクロな人口動態において捉えて統計的に働きかける。
ヨーロッパで発達した近代の医学や生物学、統計学、経済学は、こうした統治の発達と切り離せない。
いまコロナ危機で私たちが目撃しているのは、
近代がとってきた「政府」というガバナンスの仕組みにもとづく統治の危機なのである。‥‥』
『‥‥私たちがいま経験しているのは文明のシステミックな危機である。
コロナウイルスのような種を超えた感染は人類の文明による環境破壊の結果である。
生物学的な危機が経済危機を誘発して世界史を逆回転させている。
地球温暖化が示すように人類に残された時間は少ない。
私たちは、いま不意に訪れたこの世界の停止を、
グローバル化を進めてきた経済とテクノロジーの運動をいちど根源的に考え直すための、
現象学がいうような意味での、エポケー(本質的反省のための停止)の機会と捉えるべきではないのか。
生物の生のための環境は人間の経済にとっては「外部性」とされてきた。
しかし、生政治も環境政治も、本当の意味での生物政治、地球政治へと
次元を上げることを求められている。
それを可能にするのは国民国家を超えた人類の世界政府でなければならぬはずだ。』
う~む、なるほど‥‥。
とても格調が高くて難しい論評だけれど、
読んでいると、この私にもなんとなく理解できそうな気がしてきました。
ちなみに、山口周さんの『武器になる哲学』を紐解いてみると、
「わかったつもり」にならないで判断を保留することで、
山口さんの次のような解説がありました。
『‥‥私たちが持っている「客観的な世界像」は、そもそも主観的なものでしかありえない。
世界像を確信するのでもなく、捨て去るのでもなく、いわば中途半端な経過措置として、
一旦「カッコに入れる」という中庸な姿勢=エポケーの考え方は、
このような時代だからこそ求められる知的態度なのではないかと思います。』
ひょっとして、この連載の第三回で橋爪大三郎さんが述べられた「日頃の哲学の素養」って、
こういう物事の考え方、あるいは姿勢・態度のことなのでしょうか‥‥?
武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50
- 作者:山口 周
- 発売日: 2018/05/18
- メディア: 単行本