昨日の朝日新聞一面コラム「天声人語」(デジタル版)は、「探梅」という題のコラムでした。
私は、このような内容のコラムが大好きなので、その全文をこの日記に書き残しておこうと思います。
『早咲きの梅を求め、山野を巡ることを「探梅(たんばい)」という。
山や野とはいかずとも、近所を歩き探したくなる季節になった。
咲き始めの一輪、二輪がうれしいのは、冬から春への架け橋に立った気分になるからだろう。
中国や日本の絵画で、梅は蘭(らん)、竹、菊とともに「四君子(しくんし)」と呼ばれる。
気品があり、高潔なところが君子のようだとされ、好んで描かれたという。
先日ラジオで耳にした漢詩も、そんな雰囲気を伝えていた。
〈庭上(ていじょう)の一寒梅(いちかんばい)/
笑(え)んで風雪(ふうせつ)を侵(おか)して開く/
争わず また力(つと)めず/
自(おの)ずから百花(ひゃっか)の魁(さきがけ)を占(し)む〉。
風雪をしのぎ、微笑(ほほえ)むように咲く。決して無理することなく。
この冬、北国では例年にない風雪を耐え忍ぶことになった。
高齢化が進み、屋根の雪下ろしもままならない、そんな地域も多かったに違いない。
温暖化は不意のドカ雪ももたらすというから、災害対策としての構えが必要になる。
民俗学者として東北を歩いた柳田国男に「雪国の春」の文がある。
「嵐、吹雪の永い淋(さび)しい冬籠(ふゆごも)りは、
ほとほと過ぎ去った花のころを忘れしめるばかり」
「ようやくに迎ええたる若春の喜びは、南の人のすぐれたる空想をさえも超越する」。
春への思いの強さは雪の深さに比例するのかもしれない。
自分の周囲の季節感をもとに、花や生き物を書くのを申し訳なく思うことがある。
春まであと一歩、二歩、いやまだ歩き出してもいないという地域でも、それぞれに春を待つ人がいる。』
はぃ‥、コラムニスト氏の「深い教養」と、
「自分の周囲の季節感をもとに、花や生き物を書くのを申し訳なく思うことがある。」という文章から、
「謙虚な姿勢」と「他者への思いやり」が自然と伝わってきます。
このような秀逸なコラムに、年に数回でも出合えることができる限り、
朝日新聞デジタル版の有料会員(シンプルコース)を続けようと思っています。