昨日の愛媛新聞「現論」に、ノンフィクション作家の保阪正康さんが、
『コロナ禍と葬儀~儀式変容 私流の別れを』というタイトルの論評を寄稿されていました。
論評の冒頭で、保阪さんは、次のようなことを述べられていました。
『私自身の老いの故もあるのだろうが、このところ友人、知人、
さらに仕事上の畏友などの死にしばしば出合う。
電話で、メールで、時にはご遺族からの書簡で知らされる。
この1年半近く、通夜、葬儀に出たことはない。
新型コロナウイルスのせいもあるのだが、密の状態を避けるために
葬儀一切はわずかの身内で行うことが定着した。
死者との別れの儀式は、現代社会から見事に消えていったというのが現実である。‥‥』
はい‥、私も、一昨年の10月に、母方の伯母の通夜・葬儀に参列して以来、
そうした「死者との別れの儀式」に出席することがなくなりました。
昨年の8月には、大阪在住の母方の伯父が亡くなりましたが、
ちょうどその頃は、新型コロナウイルス感染拡大の第二波と騒がれていた時期でもあり、
伯父の逝去を知ったのは、従弟から届いた一通の封書で、
そこには、家族で一連の儀式を執り行ったことが書かれていました。
子供の頃から、伯父にはとても可愛がってもらったので、
最後のお別れをしたかったのですが、それが叶わず、今でも残念に思っています。
‥‥というか、今でも自分なりのケジメがついていないような気がするのです。
なお、さきほどの論評で保阪さんは、次のようなことも述べられていました。
『‥‥別れの儀式を私流に行うことで、故人との別れに心の整理をした。
通夜でも告別式でもない。あえて言えば、今生では会えないが、私もいずれそちらにいく年齢です。
また談論風発しましょうとの呼びかけである。心が落ち着いてくる。
この落ち着きだけで、死者との回路が確認できるような気がするのである。』
う~む、なるほど‥‥。「死者との回路の確認」ですか‥‥。
そう言われても、なかなか難しい「儀式」のような気もします。
今回の論評を読んで改めて感じたのは、通夜や告別式という「死者との別れの儀式」は、
「死者との別れ」だけでなく、「残された生者間の絆」を再確認する「場」として、
「実は、とても大切な役割を果たしていたのではないか」、ということでした。