昨日の続きです‥。
4月13日(日)の朝日新聞一面コラム「天声人語」は、「入学式の言葉」に関する内容で、
その最初と最後には、次のようなことが書かれていました。
『人間がどんなに愚かであっても、いかに自分らの都合で自然に手を加えようとも、
それでも「春はやっぱり春であった」。ロシアの文豪トルストイは名著「復活」を、そう書き始めている。
もの思う春かな。入学式の言葉から。
~ (中略) ~
時間を表す言葉は、ギリシャ語に二つある。同志社大学の学長は説いた。
いま大切なのは、機会に刻まれ、管理される〈クロノス〉でなく、
自然のなか、ゆっくりと時を満たす感覚〈カイロス〉ではないか。立ち止まる。じっくり待つ。
そんな時の流れが、尊く感じられる春である。』
このコラムに関連して、次のようなことを補足的に書き残しておこうと思います。
まず、トルストイの「復活」について、「世界文学大系」(河出書房新社)の書き始めは次のとおりです。
『何十万という人間が一つの小さな場所へ集まり、そこで互いにせり合って、
その土地をみにくくしようとどんなに骨を折ったところで、
また地面に何もはやさないようにどんなに石を敷きつめたところで、
また萌え出てくる草を一本残らずたんねんに取りつくしたところで、
また石炭や石油でどんなにいぶしたところで、またどんなに木を刈りこんだり、
鳥や獣を追っぱらったりしたところで、‥‥春はやっぱり春であった‥‥。』
次に、〈クロノス〉と〈カイロス〉については、曽野綾子さんとの共著「旅立ちの朝」の「あとがき」で、
アルフォンス・デーケン神父は、次のようなことを述べられています。
『ギリシャ語には「時」を意味する二つの言葉~クロノスとカイロス~があります。
クロノスは客観的・物理的な時間、時計によって測られ、
時・分・秒といった単位で表現される量的な時間です。
しかし時間にはもうひとつの時間~質的な時間であるカイロスも存在します。
カイロスは生涯に一度訪れて二度とはめぐってこない唯一無二の時のことです。
ギリシャ神話では、カイロスは機会を司る神とされ、前頭部には長い髪がありますが、
後頭部は禿という姿で描かれています。
カイロスが前からやって来る時はその前髪をつかんで捕らえることができますが、
いったんカイロスが過ぎてしまったら、後ろからつかまえることはもうできないというわけです。
そのような一度限りの決定的瞬間の体験は、私たちの一生を大きく左右するものです。
カイロスそれ自体は外から与えられるものですが、カイロスの意味を見逃すことなく、
それに伴う挑戦に応じるかどうかは、個人の主体性にかかっています。』
はぃ、コラムを読んで、この二つの本に書かれていたことを思い出した次第です。
「天声人語」は、603文字のスペース、五つの「▼」で区切られた六つの段落で構成されています。
コラムニスト氏が書ききれないことが、その行間に詰まっています‥‥。
この春、大学に入学された学生の皆さん、私のように無為な大学時代を過ごさずに、
「学問の府」で「知性と教養」を磨いてくださいね。
きっと将来、役に立つはずです。ご活躍をお祈りします‥。