しんちゃんの老いじたく日記

昭和30年生まれ。愛媛県伊予郡松前町出身の元地方公務員です。

老年学を知る

昨日26日の「溜池通信・不規則発言」を読んで、

「ジェロントロジー」という言葉を知りました。

「かんべえ」さんこと、双日総合研究所吉崎達彦さんは、

この「ジェロントロジー」について、次のように書かれていました。

 

『最近になって、ジェロントロジーという言葉があることを教わった。

 要は「老年学」ということで、長寿化、高齢化が進むと

 社会経済にはどんなことが必要になるかを研究するものだとか。

 何と慶応大学には、

 「フィナンシャル・ジェロントロジー研究センター」なるものもできている。

 つまりその金融版というわけ。今後、非常に重要性を増す研究分野だと思う。

 例えば今は「高齢者の金融資産」というと、

 オレオレ詐欺からどうやって守るか、遺産相続で揉めないためにどうするか、

 といった後ろ向きの話が多くなる。

 が、1700兆円もの金融資産のうち、

 3分の2は高齢者が保有しているといわれる。

 そのほとんどが銀行預金になっていることは想像に難くない。

 これをどうやって日本経済を成長させる投資分野に振り向けるか、

 といえばたちまち一大テーマができあがる。』

 

ご案内のとおり、私のこの日記のタイトルは「老いじたく」ということで、

日々老化が進んでいる一人のオジサンの徒然を記録するものなのですが、

世の中には、同じ「老い」は「老い」でも、

「老年学」という格式高い学問分野があることを知りました。

 

確かに、超高齢化が進む、その先の社会経済がどのようになって、

そこではどのような課題があり、その課題をどのように解決していくのか、

これらのテーマを研究するのはとても大切なことだと思います。

 

慶応大学の場合は、「老年学」の「金融版」とのことですが、

そのうち、日本の大学には「老年学部」という、

長寿・加齢に伴う問題を、総合的・横断的に学ぶ学部が誕生するかもしれません。

5歳と11か月の孫娘

久し振りに孫娘の話題です。

孫娘は、昨日25日で5歳と11か月になりました。

これまで元気に育ってくれたことに感謝したいと思います。

 

さて、最近の孫娘はというと、

この4月から保育園の年長組である「ゾウ組」に進級()して、

ずいぶんと風格と貫禄(??)が出てきたように思います。

また、天性の「おしゃべり」にはさらに拍車がかかり、

我が家にやってくると、周りの大人が閉口するくらい

あーだこーだとしゃべり続けています。

 

おしゃべりの内容も大人びていますが、

その一方で、寝ている時に親指をおしゃぶりする赤ちゃんの時からの習性は、

いまだに治りそうもなくて、ちょっと困っています。

 

保育園の年長組ということは、来年4月からは小学1年生です。

私、グランパのお務めとして、

この夏頃にはランドセルを買ってやらなければなりません。

 

さて、話は変わりますが、

私はこの4月に転職してから、早や一か月が経過しようとしています。

部長という役職もなくなって、今は県庁時代の一般職員のような仕事をしていますが、

第三セクターなのに特定企業の利益を最優先にしていた前の職場よりも、

はるかに社会に役立っているような気がしていて、

毎日、仕事に充実感や達成感を感じながら過ごしています。

 

今回の職場は県出資の公益財団法人ということもあって、

県職員OBが私を含めて、13人中7人も在籍していますが、

なんと61歳の私が一番若いのには、正直、戸惑うところがあります。

ただ、理事長をはじめ先輩諸氏は、

年齢を感じさせないほど精力的に仕事に取り組んでいて、

その使命感に脱帽しています。

微力ながら、私も負けずに頑張っていきたいと思います。

 

今日は、とりとめのない近況報告でした……。

 

あの夢をもう一度

2025年国際博覧会(万博)の大阪誘致について、

誘致委員会が昨日24日、仏パリにある博覧会国際事務局(BIE)

立候補を届け出たそうです。

 

そして、今日25日の朝日新聞デジタル版「耕論」は、

『いまこそ万博?』というタイトルで、

記事の冒頭は、次のような問い掛けの文章で始まっていました。

『2025年の万国博覧会(万博)を大阪で開催しようと、

 誘致活動がいよいよ始まる。競合相手は、パリ。なぜ、日本で万博なのか。

 万博は、いまも未来社会の姿を示せる舞台なのか。』

 

この問い掛けに対し、3人の方が答えられていましたが、

そのうちのお一人、空間メディアプロデューサーの平野暁臣さんは、

次のように述べられていました。

『2025年万博の大阪誘致は、1970年の大阪万博を小学生から

 中学生のころに経験した「万博少年」のノスタルジーがあると思います。

 万博は誇らしく強い成功体験であり、同世代の私にとっても、大事件でした。

 今回、無意識のうちに「あの夢をもう一度」という気分になっていないでしょうか。

 時代は変わり、万博は構造的な問題を抱えています。

 成功体験との決別から、始めなければなりません。

          ~()

 70年の大阪万博が入場者6422万人という当時の最高記録を

 樹立できたのは、ひとえに強力な非日常を提示できたからでした。

 宇宙船やアポロが持ち帰った月の石など、

 会場に満ちていた「未来」と「外国」はSFの世界のようで、

 大衆にとっては夢や希望でした。高度成長期の日本人は、

 戦勝国と同じ生活水準にはい上がったと実感できました。

 万博は、わくわくする「私の未来」をエンターテインメントとして

 提供できる、唯一のメディアでした。  

 万博の役割とは、「私と関係があるかもしれない」と知的好奇心を刺激し、

 身体感覚で感じてもらえるかどうかです。

 情報環境が大きく変わり、これまでと同じことをしていては感動は再現できません。

 無邪気に未来を礼賛することもできなくなりました。』

 

その大阪万博には、私は中学3年生の夏休みに、

父と小学4年生の弟の3人で行きました。

この時、生まれて初めて飛行機に乗りました。

 

それぞれのパビリオンの展示内容は記憶の彼方に消えてしまったけれど、

「ここが日本か」と思うような異次元の世界に来た感覚を持ったこと、

人がとにかく多かったこと、とても暑かったことは、今でも強烈に覚えていて、

平野さんが言われているように、当時、中学3年生の「万博少年」に、

夢と希望を与えたことは間違いのない事実です。

 

2025年には、私は生きていれば69歳……。

もう一度あの時のように、一人の人間と人類の未来に

夢と希望を与えてくれるような万博になるのであれば、

たとえ「ノスタルジー」と言われても、今から楽しみに待ちたいと思います。

政治の刷新か、後退か?

昨日23日に実施されたフランス大統領選の第1回投票の結果は、

中道系独立候補のエマニュエル・マクロン元経済産業デジタル相が得票率で首位、

極右政党、国民戦線マリーヌ・ルペン党首が2位で、

いずれの候補者も過半数に届かず、来月7日に実施する第2回の決選投票を

マクロン氏とルペン氏が争うことが決まったようです。

 

う~む…、結局、こうなりましたか……。

両者の得票率にはほとんど差がないことから、

アメリカ大統領選挙のように、今の世界では何が起こっても不思議でなく、

決選投票の行方も予断を許さない状況だと感じます。

「これも選挙という民意を反映したものだから」と自分なりに思っていたところ、

昨日の朝日新聞デジタル版「文化の扉」には、次のようなことが書かれていました。

 

『森政稔・東大教授(政治思想史)は民主主義思想の歴史的な発展を踏まえると、

 「ポピュリズムは民主主義とは違うものと考えるべきだ」と語る。

 ルソーが『社会契約論』で語ったように、

 民主主義の基本には人民主権という考え方がある。

 だが、現代の民主主義はさらに進み、主権を持つ「我々」の内部には

 いろんな人がいることに気づいている。

 その「違い」を守る仕組みを含めて民主主義と考えるというのだ。

 米国の公民権運動やベトナム反戦運動の展開を踏まえ、

 デモやNPO活動など選挙以外の手段で、私たちは民意を「表現」し、

 民主主義をよりよいものにアップデートしようとしてきた。  

 「選挙は民主主義の回路の一つに過ぎない。それを絶対視し、

 民意を聞けば『何でもできる』と語るポピュリストは実は古いタイプの政治家です」  

 閉塞(へいそく)した政治にポピュリズムしかないと考えるのは、

 政治の刷新どころか後退なのだ。』

 

再び、う~む……。ますます分からなくなってきました。

政治と民意をつなぐべき政党が役割を果たさない時、

危うさは残るけれども、ポピュリズムが議会政治のゆがみをただすと、

評価する専門家もいるそうですし、

先日読了した『ポピュリズムとは何か』(中公新書)にも、

確かに似たようなことが書かれていました。

 

政治の刷新なのか、後退なのか……?

日本の若者は、このような状況をどう思っているのか、意見を聴いてみたいです。

いや、日本の場合は、まずは若者に選挙で投票所に足を運んでもらうことが、

優先課題なのかもしれません……。

未知のものへの漂白

NHKテキスト・100分de名著『人生論ノート~三木清』を読了しました。

講師は、アドラー心理学で有名な哲学者の岸見一郎さんです。

 

「人生論ノート」という文庫本は、

確か高校生の頃に、手に取って読んだことがあるはずなのですが、

今は手許にはありません……。今回、このテキストを読んで、

その文章が難解・複雑なことを改めて認識しましたが、

高校生当時は、ほんの数ページ読んだだけで、理解を放棄したように思います。

 

さて、いつものように、テキストにあった三木清の言葉を

いくつか抜き出してみました。

・希望を持つことはやがて失望することである。

 だから失望の苦しみを味わいたくない者は初めから希望を持たないのが宜(よ)い、

 といわれる。しかしながら、失われる希望というものは希望ではなく、

 却って期待という如きものである。

・ひとは軽蔑されたと感じたとき最もよく怒る。

 だから自信のある者はあまり怒らない。

 彼の名誉心は彼の怒が短気であることを防ぐであろう。

 ほんとうに自信のある者は静かで、しかも威厳を具えている。

・外的秩序は強力によっても作ることはできる。しかし心の秩序はそうではない。

 人格とは秩序である、自由というものも秩序である。

・孤独は感情でなく知性に属するのでなければならぬ。

・私にとって死の恐怖は如何にして薄らいでいったか。

 自分の親しかった者と死別することが次第に多くなったためである。

 もし私が彼等と再会することができる~これは私の最大の希望である~

 とすれば、それは私の死においてのほか不可能であろう。

・人生の行路は遠くて、しかも近い。

 死は刻々に我々の足もとにあるのであるから。

 しかもかくの如き人生において人間は夢みることをやめないであろう。

 

日本を代表する哲学者の一人である三木清(1897~1945)は、

治安維持法で逮捕され、獄中、48歳で無念の死を遂げるまで、

精力的に自らの思想を世に問い、

二十巻におよぶ全集が編めるほど膨大な著作を遺したそうです。

この三木清のことを言っているのかどうか定かではありませんが、

テキストのなかに、岸見一郎さんの次のような印象深い言葉がありました。

 

『人間がどこから来て、どこへ行くのかは誰も知りません。

 これは人生において最大にして根本的な謎です。行き着くところは死でしょう。

 しかし死がなんであるかを、誰もはっきりとは答えられない。

 つまり「人生は未知のものへの漂白」なのだと三木は言います。

 たとえ目的地に辿り着けなかったとしても、旅の途中を味わっていれば、

 得るものは様々あります。人生も同じです。 若くして亡くなった人について、

 道半ばで無念であったろうというふうに考えるのは、

 実は違うのではないかと私は思います。到達点だけでなく、過程を見れば、

 そこにはその人にとっての喜びや充実した時間があったはずです。

 いつ、どこで人生を終えたとしても、

 生きた瞬間、瞬間がすでに完成しているのです。』

 

高校生の時に理解を放棄した文庫本を、

この歳になってもう一度手にすることに、意味と価値があるかもしれません…。

 

三木 清『人生論ノート』 2017年4月 (100分 de 名著)

三木 清『人生論ノート』 2017年4月 (100分 de 名著)