NHKテキスト・100分de名著『人生論ノート~三木清』を読了しました。
講師は、アドラー心理学で有名な哲学者の岸見一郎さんです。
「人生論ノート」という文庫本は、
確か高校生の頃に、手に取って読んだことがあるはずなのですが、
今は手許にはありません……。今回、このテキストを読んで、
その文章が難解・複雑なことを改めて認識しましたが、
高校生当時は、ほんの数ページ読んだだけで、理解を放棄したように思います。
さて、いつものように、テキストにあった三木清の言葉を
いくつか抜き出してみました。
・希望を持つことはやがて失望することである。
だから失望の苦しみを味わいたくない者は初めから希望を持たないのが宜(よ)い、
といわれる。しかしながら、失われる希望というものは希望ではなく、
却って期待という如きものである。
・ひとは軽蔑されたと感じたとき最もよく怒る。
だから自信のある者はあまり怒らない。
彼の名誉心は彼の怒が短気であることを防ぐであろう。
ほんとうに自信のある者は静かで、しかも威厳を具えている。
・外的秩序は強力によっても作ることはできる。しかし心の秩序はそうではない。
人格とは秩序である、自由というものも秩序である。
・孤独は感情でなく知性に属するのでなければならぬ。
・私にとって死の恐怖は如何にして薄らいでいったか。
自分の親しかった者と死別することが次第に多くなったためである。
もし私が彼等と再会することができる~これは私の最大の希望である~
とすれば、それは私の死においてのほか不可能であろう。
・人生の行路は遠くて、しかも近い。
死は刻々に我々の足もとにあるのであるから。
しかもかくの如き人生において人間は夢みることをやめないであろう。
日本を代表する哲学者の一人である三木清(1897~1945)は、
治安維持法で逮捕され、獄中、48歳で無念の死を遂げるまで、
精力的に自らの思想を世に問い、
二十巻におよぶ全集が編めるほど膨大な著作を遺したそうです。
この三木清のことを言っているのかどうか定かではありませんが、
テキストのなかに、岸見一郎さんの次のような印象深い言葉がありました。
『人間がどこから来て、どこへ行くのかは誰も知りません。
これは人生において最大にして根本的な謎です。行き着くところは死でしょう。
しかし死がなんであるかを、誰もはっきりとは答えられない。
つまり「人生は未知のものへの漂白」なのだと三木は言います。
たとえ目的地に辿り着けなかったとしても、旅の途中を味わっていれば、
得るものは様々あります。人生も同じです。 若くして亡くなった人について、
道半ばで無念であったろうというふうに考えるのは、
実は違うのではないかと私は思います。到達点だけでなく、過程を見れば、
そこにはその人にとっての喜びや充実した時間があったはずです。
いつ、どこで人生を終えたとしても、
生きた瞬間、瞬間がすでに完成しているのです。』
高校生の時に理解を放棄した文庫本を、
この歳になってもう一度手にすることに、意味と価値があるかもしれません…。